それが笑い話になるまでの道のりを
中学生の頃、クラスのヤツらが大嫌いだった。
部活動もしていたが、部員も後輩も大嫌いだった。
こうも馴染めないものかと嘆いていた。
自分の世界に閉じこもって
いつの間にか対人恐怖症になっていた。
自分の器の小ささが招いていたことだが
中学卒業式の夕方僕はなんとも言えない喪失感があった。あんなに嫌だったのにいざ離れると本当に居場所が無くなったような気がして。
ゲーム内との友達とも馬が合わなくなっていて
僕は家に帰れなくなった。
そして僕は何を思ったのか
河川敷から携帯をぶん投げた。
ドラマのワンシーンみたいだ。と当時を回想する。
川に沈んでいく携帯。
そのまま立ち去ろうとしたら、違法投棄の看板を見てやっぱり拾った。ダサい。
結局携帯電話は水没しており
その次の週携帯を買え変えた。
このエピソードは今ではどこでもウケる鉄板ネタになった、当時が苦しかったからこそよく覚えていて鮮明に話すことが出来る。
だから僕は誰かの失敗談を聞くと自分と照らし合わせてしまう。彼のこの話がこうして笑い話になっているのは当時は本当に苦しかったからなのかもと。
当時の苦しみが今の笑いになっているなら
それは成長なのだろうか。
僕の昔の失敗は今では笑い話になっている。
その笑い話になるまでの道のりを僕は辿ってみたくなった、どこまで進んだらそれが笑い話に変わっていたのか。
笑い話になった瞬間は自分を認められた時だった。
弱い自分を認めて、なにかに熱中して変わろうと奮闘するようになってからだ。
昔と今でなにか違ったかと言われれば、自分を認められたかどうかだと思う。
弱くても、へなちょこでも大丈夫。
認めるところから始めればいい。
今の失敗が過去になるまで
過去の失敗が思い出になるまで
その道のりを楽しめばいいのだ。
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