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うつの医療人類学 北中 淳子

うつ病が世界的な流行をみせている。この流行はなぜおきたのか。北米と比較しながら、日本の「うつ」の過去・現在・未来を透徹。(Amazon 紹介文より)

うつの医療人類学 北中 淳子 日本評論社 (2014/9/19)

著者について
北中 淳子:所属慶應義塾大学 文学部人文社会学科 人間関係 教授
学位 博士号(マッギル大学)
   修士号(シカゴ大学)

目次
序 章 うつと自殺の医療人類学
第1章 「意志的な死」を診断する――自殺の医療化とその攻防
第2章 気のやまい――前近代の鬱
第3章 「神経衰弱」盛衰史――「過労の病」はいかに「人格の病」へとスティグマ化されたか
第4章 「精神療法」と歴史的感受性――二〇世紀日本のうつ病
第5章 鬱、ジェンダー、回復1――男性と「諦観の哲学」
第6章 鬱、ジェンダー、回復2――女性はうつ病をどのように経験してきたか
第7章 「労働科学」の新たな展開ーー〝ストレスの病〟と脆弱性再考
第8章 自殺論――労働の病、レジリエンス、健康への意志
第9章 ローカル・サイエンス、グローバル・サイエンス

※下記は本書からの引用。強調は引用者。旧アカウント での引用部分に誤字があるなどで直そうとしたところ、うまくいかなかったので、著書を再読のうえ、別の引用部分を含め取捨して再掲した。

うつ病は、日本においては、近代精神医学が導入された時点で確立された概念であり、今になって啓蒙が急に進んだというのは、不思議なことだ。鳥インフルエンザのように、新たなウイルスが発見されて啓蒙が進むといった伝染病とは違うのだ。少なくとも、なぜ今になって啓蒙が進んだのか考える必要があるだろう。

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一九八〇年に刊行された、アメリカ精神医学会の診断マニュアル・DSM-Ⅲでは、うつ病の概念が大幅に拡大した。それ以前はうつ病の中核に「内因性うつ病」と呼ばれる、バイオロジカル(生物学的)な素因的基盤をもつ鬱の存在が想定されていたのだ。「理由もないのに悲しくなる」といった、容易に了解できない症状が 中核にあるとみなされた疾患だったのである。対して、仕事のストレス、大切な人との別れなど、 生活の途上で起こりうる、容易に了解できる鬱については、人生の問題、あるいは抑うつ性の神経症だと理解されてきた。ところが、DSM-Ⅲでは、内因性うつ病も神経症もすべて、major depression(大うつ病)に含まれることになった。

人生の自然な経験、宗教的・道徳的課題とされてきた現象が医療の問題として定義されなおす過程を、医療化(medicalization)と呼ぶ。うつ病診断基準の変化によって、大規模な「日常の苦悩の医療化」が可能になったのだ。

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新世代抗うつ薬・プロザックの台頭だ。それまでの抗うつ薬は、副作用や大量服薬の懸念から、慎重に処方されていた。プロ ザックはそういった心配が比較的少ないとされ、簡単に処方されるようになった。その結果、処方する先として、これまでは、生きづらさを抱えながら暮らしてきた人々のなかから、新たな対象者を見つけようとする、大規模な掘り起こしが行われた。同時に、これまでは精神療法によって暗い性格を変えようとしていた人たちも服用するようになり、「プロザックを飲んで明るい性格になっ た」「幸せの薬だ」という報告が増えた。 クレイマーが better than well と呼んだように、プロザックは、単に病からの回復をもたらす道具というだけでなく、正常よりもさらによい状態を可能にする「エンハンスメント・テクノロジー」として捉えられたのだ。創造性や生産性を向上させ、人格そのものを変革する薬として、プロザックは精神障害につきまとっていた負のイメージを和らげたのである(ただし、どれほどの効き目があったのか、今では疑わしいといわれている。というのも、新薬が出ると一時的に高い効用が報告され るという現象があるからだ)。

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プロザック・ブーム以降、意外なほどの数の科学者が、創造性・生産性を上げる目的で向精神薬をのんでいることが明らかになった。競争に打ち勝つために、みずからを「神経化学的自己」(neurochermical selves)へと改変することが不可欠になっている社会の姿がそこにはある。

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しかし、北米では、九〇年代にかけて抗うつ薬が日常に浸透する一方で、うつ病流行の非常に早い時期から、鬱をめぐる自己の医療化の意味について、広く論争が起こっている。それは、医師だけでなく患者、哲学者、社会科学者を巻き込んだかたちで行われた。 そのひとつが、精神医学内 ― とくに精神療法的志向性のある医師 ― からの批判だ。うつ病は欧米では長い歴史をもち、とくに前近代のうつ病と言われる「メランコリー」は、哲学や宗教、文学の領域において、自己洞察や宗教的深みに至るための重要な契機とみなされてきた。一九世紀以降、精神医学が台頭するにしたがい、うつ病を脳の疾患、化学物質による変調とみなすバイオロジカルな立場が強くなるが、他方で、哲学的伝統の影響を受けた精神療法家たちは、うつ病を「自分の生き方に無理があるサイン」と考えてきた。そこで「脳の病気だから薬で解決しよう」というのは、鬱による自己変革の可能性を失うことになると批判したのだ。

この議論は長年続いているが、それが再度(精神療法家を超えて)勢いを増したのが、二〇一三 年五月に発行されたDSM-5における「うつ病」診断基準の改定をめぐって争われた「悲哀の喪失」論争だ。

世界中の精神医学に多大な影響を与えてきたDSMだが、何度か大きな改訂を繰り返して今に至っている。それでも、これまで、親しい人を失くした際の悲哀は、大うつ病の診断基準からは除外されていた。死別に対する哀しみは、あくまでも正常な体験であって、病的な「うつ病」とは区別 されるべきとの見方が北米精神医学でも長い間保持されていたのだ。

ところが、最新のDSM-5で、喪失の悲哀をもうつ病診断に含めるという方針が打ち出され、それに対して、著名な専門家たちが次々に強い反対を表明した。

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臨床現場のみならず、メディアでの日本のうつ病言説を追っていると、独特な形でうつ病が語られていることに気がつく。

たとえば、「こころの風邪」「全身の病」「全人的な病」といったキャッチフレーズにみられるような心身一元論的語りや、「過労の病」「ストレスの病」といった仕事と直に結びつけて論じる傾向は、北米とはかなり異なる。 このような言説は、歴史的に一体どういった系譜をもつのか。そもそも「うつ病」という言葉自体いつ頃から日本にあるのか。…

さらに、現在のようなうつ病の流行は、はたして初めて起こったのだろうか。

実は一九五〇年代に抗うつ薬が発見され、六〇年代に日本の精神医療でも使われるようになるなかで、週刊誌のみならず、『暮しの手帖』といった一般誌でもうつ病予防・治療についての記事が載るくらい、うつ病が一般的な病として啓蒙された時期があった。しかし、この流行は小さな規模に留まる。
それよりはるかに大きな規模で日本人の間に広まったのは、一九〇〇年代から一九三〇年代である。この時期に流行した「神経衰弱」は、現在のうつ病とまったく同一の疾患ではないが(それよりもかなり広く雑多な症状を含んでいた)、きわめて類似点の多い「疾患」であった。

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現在でこそ、北米でも薬物療法一辺倒になったうつ病治療だが、北米においても長らく「鬱」とは精神療法によって治すべき主要な病と考えられてきた。それに対して日本では、うつ病者に対する精神療法についてきわめて慎重な態度がとられ、近年、認知行動療法が広まる以前は、これといった精神療法論はみられない。この違いはどこからくるのか。

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一九九〇年代まで、日本精神医学内でのうつ病論を特徴づけていたのは、うつ病病前性格論といわれる、下田の執着気質論やテレンバッハのメランコリー親和型論だった。

真面目で責任感の強い人びとがうつ病になりやすいというこの性格論は、日本とドイツの一部を除いて、ほとんど聞かれることがないにもかかわらず、臨床では圧倒的な説得力をもって長年支持されてきた。そこで想定されている典型的うつ病患者が中高年のサラリーマン男性ということもあ り、日本においては長らくうつ病者=男性というイメージで語られることが多かった。欧米でうつ 病= 女性という図式がとられてきたことを考えると、きわめて対照的である。このようなうつ病表象におけるジェンダー差の裏には一体何が存在したのか。またそのような言説はうつ病に苦しむ人 びとの経験をどのように形作ることになったのか。

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日本におけるうつ病をめぐる言説の、もうひとつの大きな特徴は、うつ病が個人の生物学的問題を超え、社会病理として広く語られていることである。
うつ病啓蒙キャンペーンは、「過労の病」「ストレスの病」としてのうつ病に注目することで、この病にある種の社会的正当性を与えることに成功した。個人の弱さや欠陥ではなく、社会的状況に人々の視点をシフトさせることで、精神障害の道徳的意味を反転させたともいえる。

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日本人の自殺観は、西洋との対比において特異な文化差として語られてきた。モーリス・ パンゲが『自死の日本史』で論じたように、日本では自殺が「死の作法」として社会的承認を受け、 時に「意志的な行為」として賞賛の対象にさえなってきた歴史は、多くの学者が明らかにするところである。

切腹や心中の伝統をもって日本人の自殺観を語るのは ―― 自殺を個人の弱さとするまなざしが日本にも確実に存在することを考えると ―― 一面的な理解にみえるかもしれない。ただ現代においても、「引責自殺」「覚悟の自殺」といった表現にみられるように、苦難の中で死を選び取る行為を、 究極の自由意志の発動とみなす、ある種の美意識が存続していることも確かであろう。

そして、このような自殺に自由意志を見出す視点は、近代精神医学がもたらした、バイオロジカ ル(生物学的)な病的自殺論に対する抵抗の基盤となってきた。たとえば一九九九年に江藤淳が 「自ら処決して形骸を断ずる所以なり」との遺書を残して命を絶ったが、江藤の生前の言動にうつ 病の徴候を見た精神科医らの声は、彼の死を「一流の美学」とした知識人の賞賛の声にかき消されてしまった。このように、文化的自殺観からの医療化に対する抵抗こそが、長い間日本の自殺言説の特徴であったのだ。

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この状況が、前世紀末からの、死者年間三万人を超えるという、史上最大の自殺者の増加を経て現在変わりつつある。働き盛りの労働者の自殺が社会問題化するなかで、二〇〇六年には「自殺対策基本法」が制定され、自殺を予防するための重要な軸として、職場・地域での精神障害対策が取られ始めている。メディアにも精神科医が頻繁に登場し、自殺の背景にはバイオロジカルな疾患の可能性があることを広く説くようになった。自殺は精神障害によっても引き起こされるという認識が広まるなかで、しかし一般の人々の間では、精神医学的言説に対する不安も根強い。精神科医は何でも病気にしてしまうのではないのかという疑念や、バイオロジカルな物語に絡め取られることで、自殺に込められた実存的な意味さえもかき消されてしまうのではないかとの不安の声も聞こえてくる。

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精神医学には、大きくわけて精神療法的な見方とバイオロジカルな見方の二つがあり、両者はつねに拮抗している。どちらの理論に依拠するかによって、どのような現象が精神科の対象とみなされるかも変わってくる。

たとえば北米では、精神分析の影響下で比較的最近まで「心因」を重視し、精神病を神経症(幼児期のトラウマや心理的葛藤が原因とされる)の延長線上で考える傾向が強かった。精神分析最盛期には、精神病者よりも、自分の過去を振り返り、自己洞察をもって回復に導くことのできる神経症患者のほうに、より治療的価値が置かれていたことが指摘されている。

他方、日本の精神医学においては、「精神病は脳病」とするドイツ精神医学の伝統を引き継ぎ、精神障害の本質は、あくまでも「内因」によるバイオロジカルな疾患との立場が取られてきた。この立場では、専門家がまず行うべきは、一見実存的な問題に見える現象の中から、「疾患」の部分を取り出し、患者にそれがバイオロジカルな異常であることを理解してもらう ー 「どっぷり主観にひたっている人をそこから引き剥がして、こちらを向かせるにはまず病気なのだということを説明する」 ー ことである。…

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患者がバイオロジカルな説明を受け入れ、病理の影響下にあったことを認めることは、その後の再発を防ぐという意味でも大切になる。この大学病院の医師たちは、これを「語りの統合」と呼んでいたが、その治療的効果が最も明らかになるのが、退院前のケース・カンファレンス(CC)だろう。

CCとは、入退院が決まった患者に関する症例検村会であり、最初に担当医から患者の症状歴・ 治療結果等の報告がなされ、その後患者と教授との面接が行われる。立ち上がって礼を述べる教授に迎えられた患者は、白衣の集団を前に戸惑いの表情を見せるが、教授の世間話のような語りに促され、二〇分ほどの面接が終わる頃にはたいてい自由にこれまでの経緯を語るようになる。ここでの対話で、患者に関する理解が一気に深まることもあり、また主治医に対する患者の率直なコメントに、部屋全体が笑いに包まれることもある。病の意味を最終的に決定するこの場での主役が、患者であるということは重要だ。そこには、一方的な権力を帯びがちな医学的見方を相対化し、病気によって損なわれた彼らの「主体性」を回復しようとする意図が込められているからだ。

時に教授はCCで「あれは覚悟の自殺でしたか?」と患者に問いかける。そのような問いに対してほとんど全員が、「いえ、あのときは消耗していて」「本当の自分ではなかった」と否定する。これは医師にとっても、患者の「病識」を確認し、治療の(一応の)終結を確かめる大切な治癒儀礼となる。

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しかし、精神科医の説得は、患者にも抵抗なく、即座に受け入れられるのであろうか。

死への意志はそれほど容易に、バイオロジカルな問題として理解されるのであろうか。

答えは否である。自殺に限らずとも、精神科医の扱う問題は、不確実性に充ちている。

精神障害とは、近代医学が理想とするような、誰から見ても普遍的かつ客観的に認められる「疾患」のあり方とは大きく異なっているのだ。うつ病・統合失調症といった、精神医学の基本的疾患でさえも、一世紀以上の科学的探究が行われているにもかかわらず、その原因がいまだ解明されていない。それは癌のような、診断テスト等を通じて目に見える「実体」をもたず、患者の訴えと医師による微細な観察を通じてしか、明らかにすることができない。ましてや、診断の要となるはず の患者の語りすら、必ずしも頼りにならない。というのも、他科と違って患者が「本当に困っていること」を医師に話すとは限らないのである。

精神科を訪れる患者は苦悩から救ってもらいたいと願う一方で、精神病と診断されることには強い抵抗を感じている。プライバシーにかかわる問題を語る必要があることも多いため、とくに経験の浅い医師にとっては、患者の信頼を得て精神科に来た本当の理由を話してもらい、隠れた希死念慮も見抜いて自殺を予防できるかどうかは大きな懸念となる。

また、精神障害自体が、脳疾患であると同時に、心理的葛藤や、家族関係の歪み、社会的矛盾の反映といった異なるレベルの影響を同時に受ける病であることも、バイオロジカルな説得を難しくしている。

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この大学病院において、希死念慮をめぐっては身体的治療が中心となっていることは、筆者にとっては初め少し意外なことだった。というのも、この病院の医師の多くは、精神療法的潮流の影響を受けており、患者の語りを大切にし、バイオロジー還元主義には批判的であったからだ。

彼らの間で伝説的に語り継がれているのは激しい幻聴に苦しむ患者とともに保護室で一晩明かした先輩医師の話であり、彼らの多くは、非言語的な病理の意味を読み取ろうとして絵画療法をはじめとするさまざまな治療的実践を行っていた。また、リストカットを繰り返し、他の病院で人格障害と診断され送られてきた患者に対しても、診療時間終了後に辛抱強く精神療法的なかかわりを続けることで着実な回復へと導いた若手医師もおり、それを支えるような指導体制が整っていた。

そして、医療人類学者として何よりも驚いたのが、フーコー以降、社会科学者が行ってきた医療批判の多くを教授や指導医ら自身が熱く語り、日々の臨床をみずから相対化しようとする批判的試みを重ねている事実であった。

最近のバイオロジー一辺倒の精神医学の流れに疑問を抱いた若い医師らも、そのような医局の知的雰囲気を求めて、全国から集まってきていた。 そもそも、 医療人類学者を招き入れる病院は、良心的医療を行うところが多いが、過去一〇年間に訪れたさまざまな病院や大学の中でも、この医局ではとくに、新しい精神医療文化が生まれつつある空気を感じたのだ。しかし、医師らのこのような懐の深さにもかかわらず、彼らは自殺未遂者とくにうつ病の自殺未遂者に対しては、身体的な治療をあくまでも重視し(急性期にはとくに)それ以上 はあまり立ち入らないようにしていた。

筆者が最初に調査を行った北米の精神科では(今でこそ薬物治療が中心となったものの)希死念慮も含め、うつ病に対しての精神療法が重視されてきたことを考えると、この大学病院の医師らが、 精神療法的な介入にはきわめて慎重であったことが不思議に思えたのだ。彼らの考え方を理解するためには、自殺をめぐる、バイオロジカル精神医学と実存(精神療法)的精神医学の間の、日本での論争の歴史を遡り、そこにある未解決の問題を知る必要があった。

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現代のマスコミを通じて流れている精神科医の姿には、なんでも脳の異常にしてしまうという画一化されたイメージが残存しているが、自殺に関しては日本の精神科医がそのような単純な主張を行ったのは、戦前に限られていたように思う。当時の『神経學雜誌」(後の『精神神経學雜誌』)や新聞・雑誌に現れる精神科医の言説を追うと、たしかに自殺は脳の異常によって引き起こされるとする見方が、近代的・科学知識として広められていった経緯が浮かび上がってくるが、それさえも必ずしも単純ではない。

日本精神医学の父といわれる(後の東京帝国大学精神科教授) 呉秀三(くれしゅうぞう)は、すでに一八九〇年代から、精神病と自殺の関係について積極的に啓蒙活動を行っているが、一九〇三(明治三六)年に、 藤村操が人生「不条理」の言葉を残して華厳の滝に身を投げ、 自殺の流行が起こるなかで、自殺をする者は脳に異常をもった危険人物であるとの精神医学言説がメディアに流れた。 ただし、東大精神科教授を兼任した法医学者片山國嘉(かたやまくによし)は、一九〇七年の「東京朝日新聞」で自殺者の生物学的な弱さを指摘しながらも社会的要因についてもさまざまに論じている。

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精神分析が隆盛を誇った二〇世紀の北米においては、精神療法こそうつ病治癒への道だと信じる人々が少なくなかった。社会学者フィリップ・リーフが論じたように、二〇世紀北米では、キリスト教にかわって、精神分析が自己を振り返るための文法を提供してきた。

北米では今でも、抑圧、抵抗、転移といった精神分析概念が、人々の日常的語彙の一部となっていることにはしばしば驚かされるが、「振り返りのない人生は生きる価値がない (The unexamined life is not worth living)」と信じる知識人にとってはとくに、みずからの無意識の欲望や、他者の行為の裏にある “真の” 意味を読みとる精神分析は魅力的だったに違いない。 とくに神経症性うつ病は、人生の矛盾が蓄積することで生じる病とされ、精神療法は病者がみずからの生き方を振り返る貴重な機会と考えられていたのだ。うつ病を「意味の病」と捉えるこの立場には、吟味された人生こそ生きるに値するのであり、身体は精神によってコントロールされるべき、という哲学的伝統の影響が読み取れる。

しかし、そのような自己との対峙は時間・労力・経済力を要し、精神をもって身体を制御しようとする生き方には厳しさがつきまとう。したがって、一九九三年に精神科医ピーター・クレイマーが、長年抑うつで悩み、精神療法を受けていた人々が、 プロザックをのむことで一気に元気になり、暗い性格も明るく変わったと報告して一大センセーションを巻き起こしたのも不思議ではないだろう。 精神分析を受ける者は、内省を重ねることでこころの奥底の「真の自己」を見つけようとしていたのに対し、プロザック以降のうつ病者にとっては、薬で明るくなり、創造性が増した自分こそが「真の自己」である。少なくとも、そう主張することが可能になったのだ。

よってプロザック流行時に、最も激しい批判を行ったのも精神療法家だった。彼らは、脳内物質の異常へと還元してしまうバイオロジカルな治療は、鬱が体現している生き方の問題を見逃すことになり、人々から内省の力を奪いかねないと論じた。薬物治療が主流になった今も、北米ではうつ病の根本的な治療のためには、精神療法が欠かせないとの声も引き続き聞かれる。 バイオロジー派は、うつ病を脳の化学物質の異常(chemical imbalance)と再定義することによって、それまでうつ病に(ときとして過剰なまでに)付与されていた実存的意味を払拭した。この主張はプロザッ ク・ブームを背景に広く受け入れられ、それまで精神分析が前提としてきた「心理学的人間」に対するアンチテーゼとして、新たに「神経化学的自己」を生みだすことになる。ただし、うつ病を 患者の幼年期の体験、生きざまや社会的あり方と密接な関係があるものとして捉える精神療法派は引き続き、このような(脳)唯物論に対して、懐疑的だ。

他方、北米精神医学での医療人類学的調査を終えて二〇〇〇年に帰国した際、筆者が驚いたのは、このようなバイオロジー vs 精神療法という対立構図が日本の精神医学では必ずしも成り立たないという事実だった。というのも、日本の精神医学教育や日々の診察においては、北米であればバイオロジカルと呼ばれるようなアプローチが一般的であり、精神分析に造詣が深い医師らも、神経学的精神医学を臨床の主軸に置いていたからだ。さらに意外であったのが、あきらかにより 「精神療法的」な医師らも、うつ病患者に対する精神療法にはきわめて慎重であったことだ。ベテランの医師の中には、うつ病には、心理的洞察を求める精神分析は「禁忌である」とまで述べる者もいた。この違いをどう理解すればいいのだろうか。日本では「神経化学的自己」観がはたして浸透しているのだろうか。

そのことを問われると、医師らの多くは、第一に日本での精神療法の一般的な不人気を語り、さらに精神療法的介入を容易に許さない診療体系の問題を指摘した。

たしかに、精神分析は二〇世紀初頭に日本に紹介されたにもかかわらず、その影響はきわめて限定されたものに留まってきた。日本精神医学の基盤は東京帝国大学初代教授の榊俶(さかきはじめ)がドイツから導入した神経学的精神医学にあり、とくに呉秀三(くれしゅうぞう)が一九〇一年以降クレベリンの思想を教育の主軸としてからは、精神病のバイオロジカルな研究こそが科学的医学と位置づけられた。戦後、アメリカの影響が一気に流れ込んできた時期にも、内村祐之(うちむらゆうし)らがヤスパースを引いて精神分析批判を展開したように、日本の医師はきわめて懐疑的だったのだ。

精神分析が学問的辺境に留まるなか、精神療法も広まることはなかった。 現行の保険診療においても、一時間話を聞こうと、一五分ほどの「精神療法」で済ませようとも、支払われるのは同額であり、自費診療でなければ、患者にじっくり耳を傾けることは難しい。 また、白波瀬が指摘するように、 治療を効率的に行い、困難さをあらかじめ回避・排除することが重視される一般の医療現場と、患者の抱く困難の直面化こそを目指す精神分析とはなかなか相容れない。

ただし、このような現実的な問題があるにせよ、筆者の出会った医師らの多くが、必要と思われる患者に対しては、研究時間を犠牲にしてでも精神療法を行っていたことを考えると、経済的・制度的説明だけでは十分とは思えなかった。

さらに理由を問われると、… 医師らは一様に、何よりもまずうつ病は 「バイオロジカルな」疾病であり、薬物療法が第一に考えられるべきであると述べた(たしかに北米のうつ病は、日本の従来診断における内因性よりもはるかに広義のものであり、そもそも想定されている病像自体が異なる点は重要だ)。

彼らはさらに、うつ病者は本来まじめで勤勉な人々であり、患者をもとの状態に戻すことこそが治療の目的であるべきだと述べる。 医師の多くは、うつ病の大家である笠原嘉(かさはらよみし)の言葉を引き、 本来適応のいいうつ病者に対しては、身体治療を中心におくべきで、彼らが回復期にみずから語ることについては支持的に耳を傾けるべきだが、それ以上の心理的洞察を臨床家が促すべきではないと述べる。

112-115

正常な悲哀さえも病理化されるのであれば、ネガティブな感情を抱くこと自体が許されない風潮が生まれ、人間性自体の否定に至る日も近い―そのような懸念が、北米では現在も繰り返し表明されている。

レジリエンスをトレーニングしてまで身に着けさせようとする社会においては、戦争や災害、別れを経験しても、嘆き悲しんで意気消沈して悲しむのではなく、それを短期間で乗り越え、前を向いて、元気に生きていく能力が望まれる。言い換えれば、そうしたレジリエントな存在であることが期待される、新たな倫理観が生まれつつある、とみることもできるだろう。

そして、ヤングがいうように、そのような倫理観が「正常性」に置き換わり、レジリエンスがいわば人間の「デフォルトのコンディション」となるとしたら、かなり生きづらい社会が生まれるのではないだろうか。日本においても、社会運動として起こってきた過労自殺・うつ病対策の先にあるのが、社会の構造的な改革ではなく、個人のレジリエンス・トレーニングだとしたら、ずいぶん皮肉なことと言わざるを得ない。

212

一九九〇年代から二〇〇〇年代の初めにかけて、海外で過労自殺の話をすると、「日本人は死ぬまで働くのか」と驚かれるのが常だった。いくら不況で過労状況だからといって、鬱になるまで働いた結果自殺するなんて、クレイジーだという反応が少なくなかったのだ。

ところが、その後、不況が世界各地に広まり、新自由主義経済によって職場環境が劇的に変化していく。二〇〇九年以降は、フランスのテレコム社における一連の群発自殺や焼身自殺のニュースが世界中をかけめぐった。そうしたなか、ヨーロッパでも、職場のストレスがもとで精神障害が起こり得るという認識が一気に高まっていく。フランス、イタリア、フィンランドなどで、ストレス による精神障害の急増が報告され、伝統的な労働文化が破壊され、人々が精神的に追い詰められて 病に陥ったのだという言説が、日本と同様に影響力を持ち始める。

たとえばイタリアでは、職場でのいじめや精神障害の増加は、社会がグローバルな経済競争に飲み込まれていくなかで、仕事での助け合いや寛容さが失われつつあることにその原因が帰されているという。また、パリ第五大学で講演した際に「フランス・テレコム社で起こった自殺は精神障害の産物だと思うか?」と会場に尋ねてみたら、皆が一斉にノンと首を横に振ったのが印象的だった。 労働運動を通じて、日本の自殺・うつ病言説と同じような流れが、世界各地で生まれつつある。

アジアにおいても、各国で過労自殺が問題となり、日本で生まれた労災システム―たとえば職場における心理的負荷評価法―が台湾で翻訳され用いられ始めている。仕事の精神病理を問う動きが世界的に勢いを増しているのだ。

212-213

アメリカでは、健康に関する個人情報の開示に対して強い制限をかけるHIPAA法 (The Health Insurance Portability and Accountability Act) が存在する。国民皆保険が存在せず、終身雇用制ではない社会においては、雇用者に個人の健康情報を知らせることのリスクのほうが高いことも指摘される。しかし、ここ数年で、こういった労働者健康促進プログラムが普及し始めるようになり、人々の意識も徐々に変わりつつあるといわれている。他方、マス・スクリーニングの制度が発達している日本においては、政府や企業が当然のように個人の健康を監視する一方で、個人の健康を守る義務をも明確に背負っている。つまり、健康という領域においては、個人と社会の関係性についてはさまざまな考え方が可能であり、その責任の所在も一様ではないといえるのだ。

216-217

前近代においては、苦しみの存在を前提に、苦しみとどう生きていくか、苦しみにどう意味を見出していくかという宗教的問いが重要とされた。近代に入ると、苦しみそのものを根絶する技術としての科学が台頭する一方、精神病の歴史に見られるように、根絶しようとする努力やその志向性自体が、苦しみを抱える人を時に追い詰めてしまう結果をも生み出してきた。

現在の自殺・うつ病の言説は「誰でも自殺に追い込まれる可能性があり、誰でもうつ病になり得る」というものだ。だから「弱さを否定することなく、他者に思いやりをもてる社会へ」という方向にいくのであれば構わない。しかし、「より弱い人を早く見つけ、そういう種をなるべくなくす」という方向だけに傾いていくのならば、それは二〇世紀初めの優生学の不幸を繰り返すことになるだろう。

217

日本のケースは、バイオロジカルな疾病として捉えることが、生物学的還元主義を必ずしも意味しないこと、多様な見方が共存しうることを明示している。とくに、過労うつ病をめぐる一連の政策変化は、医療化が個人化をもたらすものでもなく、逆にの社会的根源にまで思いを馳せ、制度変革の原動力となりうる可能性をも示唆している。

さらに重要なのは、うつ病論が、日本においては精神障害のイメージそのものを変える契機をもたらしたことであろう。遺伝病、不治の病、脳として、重苦しい負のイメージで語られてきた精神病が、うつ病を通じて、過労の、誰でも陥るこころの風邪、脳内の化学物質の(一時的な)不均衡として語られるようになったことの意味は大きい。このように、「うつ病」のあり方そのものが、きわめてローカルな要素によって大きく変化しうることに気づくことで、精神障害観自体を相対化できるようにも思われる。

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人類学者ラーマンは、精神医学には二つの共感 (empathy) の形があると論じている。

神経症を主たるモデルとする精神療法派が前提とするのは「患者は私たちと同じ」であるから、その苦しみをわかりあえるとする共感の形である。他方、バイオロジー派がとるのは「患者は私たちと異なっている」精神病という正常とは断絶した経験をしている がゆえに苦しむのであり、済されるべきとする共感の形である。 ドイツ神経学的精神医学をその基盤にもち、精神障害を神経症ではなく脳疾患の視点から捉えてきた日本精神医学の歴史は、圧倒的に、後者の共感の形をとってきたといえる。

ただし、このバイオロジカルな視点は、治療方法が確立している身体疾患にはきわめて有効に働くが、治癒がままならず、回復のめどさえ立たなかった精神病者の多くには、かえって害をなすことが少なくなかった。「われわれ」とは異なる存在として定義された精神病者は(とくに病理に侵されているとされる個所が、人格を司る脳であるがゆえに)、慢性的かつ決定的に「異質な他者」として、社会的にも排除される結果をもたらしたからだ。同時に、精神病を脳の異常に限定して捉えるということは、伝統医療的世界観からの断絶をもたらし、病の背景にある心理的葛藤や、社会的状況に思いを馳せることを難しくした。

よって、現在うつ病が従来の「正常からの質的断絶」が想定される精神病ではなく、誰でもなりうる、「ストレスの病」として語られ始めている事実は、精神障害観そのものが変化しつつある可能性を示す。社会的な苦境に置かれた人々が、心身ともに追い詰められ発症する病として理解され始めていることは、精神障害をあらためて合理性、共感、社会的連帯の可能性へと拓くことにもつながる(ただし、精神障害間での新たな差異化が進んでいる状況には注意が必要だ)。

日本でこのような精神障害観の転換、バイオロジーの読み替えが可能となった背景には、うつ病が自殺との関連で語られていることの影響が大きいように思う。日本において自殺は これを伝統的に、宗教的悪、精神病、犯罪とみなしてきた欧米とは大きく異なりしばしば正常の範疇にある現象、社会的な意義をもった行為として語られてきた。自殺は、社会的苦境にある人にとっては最後の無言の抵抗であり、そのような行いは、単に脳疾患といった病理でのみ捉えられるべきものではないとの見方が強かった。

うつ病が自殺の背景にある病理として語られることによって、バイオロジカルな側面のみならず、その実存的意味にも着目することがより容易になったように思える。実際、自殺との関連を強調することで、政府の一連のうつ病対策や、メンタルヘルスの制度化も、個人に焦点化することなく、社会的・構造的問題に注意を呼びかけるものになっている。日本においてうつ病は、伝統的な自殺と結びつくことで、個人を超えた、社会的苦悩の象徴となり得たとも考えられる。

220-222

二〇世紀のサービス産業全盛期に、社会学者ホックシールドは新しい労働形態とそれが引き起こす異なる自己疎外の形を描きだした。ホックシールドによると、サービス産業で要請されるのは心理的な「感情労働」であり、労働者は顧客や雇い主から理不尽な要求を受けても相手を理解し、思いやり、共感的に接するよう求められるが、そのことで生じる精神的疲労については十分に認識されてこなかったという。日本のように「気遣い」といった言葉で感情労働が日々要請される社会においても、その心理的代価が意識されることは稀であった。

気働きができる人は日本では高い評価を受ける。職場や家庭において人間関係の中心となるのは、そういった気の働きかもしれない。ただし、あまりにもつねに心を配り、気を回し、気を利かせて、気を遣いすぎると、気疲れしてしまう。 気苦労が過ぎると、なかなか簡単には気が晴れず、 気が滅入る。第2章で述べたように、心身一元論の伝統医学においては、こういった気遣いによる心身の不調に注意をむけるさまざまなイディオムがあった。

うつ病概念は、現代におけるそういった感情労働によるこころの疲労をうまくすくいあげ、医療のみならず社会的救済への道を開いたといえる。その意味で、過労うつ病をめぐる精神医学の言語は、無理な働き方を振り返るための、相対化の装置として働いているように思える。実際、筆者の出会った人々も、みずからのうつ病を、生物学的異常や認知の歪みを超えた、いわば生き方を変えるための “身体的洞察” として語る方が少なくなかった。 過労うつ病に対する損害賠償をめぐって、感情労働の対価ということが、真剣に考えられ始めている。

感情労働を社会病理としてレトリカルに捉えるのではなく、そこに経済的・社会的補償制度化への道を拓いたという意味で、過労うつ病をめぐる論争―「社会運動としての医療化」―の動きは、歴史的にも精神障害に対する新たな感受性の到来を示すものといえる。ただし、鬱を患った人びとの経験から、このような気づきを安易に「自己の医療化」してしまうことの弊害も浮かび上がってくることには注意が必要だ。

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