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写真を否定されると胸を引き裂かれる想いをする

奈良に越してきて2年たった。

まったく知らない地に飛び立つ前、不安はあった。
でも、「自分の心やすらぐものと一緒だったら、どこへ行ってもなんとかなる」と思い切って行動できた。

自分の心やすらぐものは「コーヒー、写真、文章」
いつでも側にいてくれて、辛いとき逃げ場になってくれる。
自己表現の一部で、お守りみたいな存在。

一方で写真は「もっと向上したい」という熱もあって、機会を増やしたいと思っていた。
いまの会社は余白が多いから、「あ、これやります」と言っているうちに仕事としてやる機会が増えた。

自分の好きが誰かの役に立つ。
最初はただ嬉しかったし、誇らしかった。


でも、やっているうちにネガティブなフィードバックを受けることがある。

「写真のクオリティ低くないか?」
「この写真を選択した意味がわからない」
「トーンが暗すぎないか」「魅力的に感じない」

自分を守ってくれた存在なのに、いつの間にか批判される対象になってしまった。
ほんとうは心の中にひっそりさせておきたいのに、人の目に晒してしまった。
心をえぐられるような感覚におちいった。


「仕事とは他者のためにすることで、自分のためではない。」

そんなことは分かっている。でも、割りきれない感情が渦巻く。
仕事だからと自分の感情抜きで撮影はしたくない。
趣味でいいや、とあきらめてしまってもいいのに、それはしたくない。
納得のいかない誰かの写真を使い続けることは、自分がゆるせない。

ネガティブなフィードバックは心をえぐられる。
でも、捉え方を変えると「お前は本気なのか?」を問われているのかもしれない、と思った。

「趣味の延長だし、本業ではないから」という甘えがあった気もする。
それを見透かされ「本気なら良いもの作れよ」と言われているのかもしれない。

仕事はどうしたって結果や質を求められる。
それに達さなければネガティブなフィードバックも飛んでくる。
自己表現するスキマは本来ないのかもしれない。

でも「本気で向上させたい」ならば、適切な環境なのではないか。
他者がいることで、自分の殻を見て見ぬふりできない。
逃げられないから向上するしかない。それが仕事なのかもしれない。


でも、何より「自分が本気でやりたい」が大前提だ。
それがなければ、ただのサンドバックになる。
そんなのやってられるか。ふざけんな。
逃げたくなったらいつでも辞めたっていい。

まずは自分のやりたいに改めて立ち返る。
休日は自分のための写真をとる。
自分が何よりも大事だ。

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