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私は大学生に向いていない

私は大学3年生あたりで、自分が大学生に向いていないと考えるようになりました。それは「強制されることが1番ラク」要するに「自由がキツい」のです。

7月も終盤になり、多くの友人が就職活動を終え「社会人になりたくない」「ずっと学生のままがいい」「自由のままがいい」という声を多く聞くようになりました。


しかし、私にはその気持ちがどうにもわからない。


私にとって「自由は不自由」でしかありませんでした。
起きる時間も自由、どの授業を取るかも自由、長期休みなんて24時間自由、そういえばバイトのシフト提出も個人の自由。全てに他者からの強制力が伴わない。自分の力で自分の生活を計画して実行する。これは、それまで他者からの強制力によって動いてきた私にとっては非常に難しいことなのです(よく日本の学校教育が受動的という話を目にしますが、自分のことだとドキッとします)。

結論としましては、社会人に早くなりたい。
定時がある生活がいい。日々にタスクが欲しい。
与えてくれれば絶対やり通す自信がある。


大学生になるまでの私には自由がありませんでした。

高校生の時は朝5時に起き、5時半には家を出て電車に乗り、7時半から楽器の練習をしていました(世間で言う強豪校だったので参加は当たり前で、強制されているという感覚は全くありませんでしたが)。毎日練習が終わって家の最寄りの駅に帰るのは22時で、場合によってはその後、親に頼んで公園の駐車場に行ってもらい、暗い車の中で個人練習をする。遅い日は個人練習を終えると日付が過ぎていて、急いでお風呂に入り明日の準備をして寝る。そして次の日の朝5時に起きる。本当に毎日このような日々を過ごしていました。(部活のことは今後またいつか書きます…)全ての時間が毎日ほぼ決まっていて、その中でどう動くかを考えていました。

浪人時は、基本的に平日は授業が朝からあったため、親の出勤に合わせて送って予備校に送ってもらっていました。予備校の授業もきちんとスケジューリングされているので、行くことが当たり前の感覚が自分の中にきちんとありました。しかも浪人当初、偏差値が30ちょっとしかなかったので、日々やることがたくさんあり学びに溢れた1年だったと記憶しています。

そんな高校生活+浪人生活の4年間を経て、毎日全力で走っていた私は「ちょっと人生で休みたい、何かに追われず気ままに過ごしたい」と大学入学前に思っていました。きっとその感情と大学生特有の自由さが、結果としてマイナスの方向に行ってしまったと感じています。

(あ、大学生と言ってもさまざまです。私は俗に言う典型的な?私文なのでこんなふざけたことをnoteにほざいているんだと思います。本当に授業とか忙しくて大変な大学生の方々本当にごめんなさい。許してください!)


誰も友達がいないまま迎えた大学1年生春。興味のあるサークルで履修登録のサポートをしてもらいました。ここから私の大学生活が崩れたのかもしれません。ここで耳を疑った言葉があります。

先輩「この授業は楽単だから取ったほうがいいよ!」
ワタシ(????、1年必死で勉強して入ったのに、大学生が授業を決める基準って『ラクさ』なの??)

心では強く思いましたがやはり口にすることはできず。そしてせっかく組んでもらった授業を変えるのも申し訳ないという思いが湧き出てしまい…1年生にして楽単祭りの時間割になりました。
授業が始まると、サークルの溜まり場にもよく顔を出すようになりました。すると、授業開始の鐘がなっても先輩から「休めば?出欠ないでしょ?」と言われるのです。私はそんなこと言われたら「確かに」とか思ってしまって。いつの間にか行かない授業が増えていきました。
なぜって?
だって誰にも怒られないんだもん。

この考え方に至った自分があり得ないんです。小中高の12年間で休んだ日はたった1日だけ。学校に行くのは当たり前、授業を受けるのは当たり前。行かない・受けないの選択肢はありませんでした。なぜなら、そこにはいつも変わらず先生がいて友達がいて授業があって、私に対して『強制力』が少なからず働いていたのです。授業に出なければ後々勉強についていけなくなることは自明だし、理由もなく休むことは先生から注意を受けることだという強い認識がありました。小さい頃から典型的な『良い子』で、行動面で先生から怒られた記憶は小中0回です。(高校はあったのか、と言っても3年の時に、センター試験の出願をしなさすぎて担任に注意されたくらいしかありません笑、だってあの時受けても勉強してないし浪人する気満々だしお金出して受ける価値を感じなかったんだもん!先生ごめんなさい。)


他人から怒られることを非常に怖がっていた学生でした。そのため非行に走るなどもってのほか。非行に走りたくないと言う理由ではありません。非行に走る勇気がなかったのです。先生に怒られる、親に怒られる、成績に響く、将来に響く。そんなことを考えると非行はできませんでした。中学時代の先輩の中には、先生に対抗して暴言を吐いたり、スカートを極限まで短くしたり、校内でタバコを吸ったりと破天荒な人たちがいました。私は羨ましかったのです。そんなに自分を表現できるのはすごいと思っていました。すごいなと感心していました。自分にできないことをする人はもれなくみんなすごいと思ってしまうのはずっと変わりません。

少しずれてしまいましたが、ある程度強制力がある環境にいた人間が、いきなり自由すぎる空間に放り出されたのです。しかも、放り出された時点で「今まで頑張ってきたから休みたい」と思っている人間…もう何もしなくなるんです。振り返ると高校時代の自分と大学時代の自分が同一人物であると思えません。明らかに別人です。落差に自分で驚いてしまうのです。今でも。

そんな何もしない時間が膨大になると…
強制力のある環境が恋しくなるのです。
自由すぎると何もしなくなる。そうすると日々の中で成果がまるでない。過去が誇れるような日々であると、過去の自分と比較してしまう。今の自分に対して自己嫌悪に陥る。しかしやりたいこともない。やらなければいけないこともない。何もしない。何も生まれない。また時間だけが過ぎていく。朝いつ起きるのも自分次第。そんなこと言われたらずっと寝ていたいじゃん。。。ずっと寝る。ちょっと起きてInstagramとTwitterと言う情報の沼に落ちて、YouTubeを見てアマプラ、ネトフリ…。

特にコロナ禍で迎えた2年生、3年生はサークル活動もなくなり、上記の生活を毎日送りました。特に何も成果を残さず、気ままに過ごしました。

これが人生で初めての後悔です。今まで生産性の高い日々を送っていた人間が大学の自由時間を持て余して行動しなかった。大学の周りの友達と言うと、蓋を開けてみればその間に勉強していたり趣味に没頭して夢中になれるものを見つけたり。

私は思うのです。

「みんな、私と同じで何もしてなかったんじゃないの?
 一緒に単位落としてたじゃん!」


テストの日に「全然勉強してなーい」
マラソン大会で「一緒に走ろうね」
以前、どちらかというと私は「」←こちらを言う側でした。
人生で初めてなのです。
言われる側の気持ちになったことが。
そしてみんなが自分よりどんどん先に走っていることに気づくことが。

「なんでみんな『自由』を有効活用できるの?」

起きる時間を時間を強制してほしい!
大まかな1日のやることを提示してほしい!
この資格を絶対取れと言ってほしい!
やるべきことが欲しい!
私に指示してほしい!
私はやることがあったら全力で頑張る自信はあるの!
早く社会人になりたい!
学生向いてない!

そんな言い訳をつらつらと書いてきましたが、これを書けるのは、今自由を有効活用しようとしているからです。

学生最後のこの期間で「自由って最高、社会人になんかなりたくない」
と言ってみたかったり、そうでなかったり。
残り時間の活用の仕方、ちょっと自分に期待してみたいと思います。
少なくとも、自由が不自由な人間が自由時間を使ってnoteを始めてみたことに関しては拍手しておこうと思います。

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