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「新月が来る」夏夜咄ニ十一夜〜ニ十五夜

文披31題 そのニ十一夜
「自由研究」


師匠を見送り席に戻ると雪乃さんが料理を運んで来た。
「お待たせ致しました。驚かれたでしょう、これからゆっくり話しましょうね。」
「先ずは、乾杯しましょう。」
そう言って私を上座に戻して右席に座り、やっと二人の酒宴が始まる。
「実はお呼び立てするのに師匠にお願いして、お膳立てをお願いしましたのよ。訳はまだ聞かないで下さいね。この夏までは雪乃の自由研究の時間なのです。つまりね、好きにしていいの。だから、雪乃と一緒に過ごして欲しいの。何も言わずに私の話を最後までゆっくり聞いてください。怒ったりしないでね。」
突然の事で何を言ってのか俄かに分からないでいたら、雪乃はそう言って構わずに話し始めた。

「びっくりなさったでしょう。」
「この店は、私の祖父と母がやっているの。これからは雪絵がこのお店をやって行くのだから、お店の事をすこしずつでも覚えるようにと母から言われて去年の暮れからお手伝いを始めているのです。」
そう言ってこれ迄のいきさつを話し出した。


文披31題  そのニ十二夜
「雨女」


「えっ、雪絵って‥。」
「あはっ、それね。雪絵それが本名なんですよ。小さい頃から自分のことを雪の、雪のは、とか言ってたらしいのね。それから雪乃があだ名になってしまったの。おかしいでしょ。一人っ子だから甘えて育ったのよ。」
彼女の屈託のない話が続いた。ロンドンの大学院までを要約したところで話を切り徐(おもむろ)に話し始めた。

「私は大学の専攻も美術史だから知識を深めるために英国の大学院へ行ったの。ロンドンの二年間弱はキャンパスや美術館とか図書館で過ごしていたのよね、ですが‥」
「それとお休みの日は日本からのお友達とよく遊びに出掛けてたわ。でもね、いつも待ち合わせると雨なのよね。みんな呆れていたわ。それからは雨女の雪絵って呼ばれるようになったの」
そう言って微笑んでいた。途中で切り上げた話の続きを少し間を置いて話し始めた。



文披31題  そのニ十三夜
「ストロー」


彼女の話しは、去年のハロウィンの頃に友達と専攻課程の修士論文の進捗状況をカフェで話すところから始まった。

「やっぱり雪乃と待ち合わせると雨になるわね。相変わらずの雨女だわ。で、ねぇ。修士論文はどこまで進んだの?」
「雪乃はねぇ。ほとんど終わったわ。そろそろ纏めに入れる感じかな。」
「早いわね。」
彼女はコーヒーを、雪乃はオレンジジュースを注文した。まもなく注文したコーヒーとオレンジジュースが運ばれて来た。それぞれテーブルに置かれた。すると雪乃はジュースにストローが無いのに気付いた。
「あら、ストローがないわ。ストローが無いからもってきてね。」
ウェイトレスに告げた。だが、すぐには届かなくて少し苛立っていた。諦めてストロー無しで飲む事にした。

するとスマホにメールが届いているのに気がつく。神楽坂の母からの連絡だった。



文披31題  そのニ十四夜
「朝凪」


メールの内容は板前でお店の板場を差配してた祖父の体調が思わしくないので診断の結果は入院治療になるから、一度なるべく早く帰国して欲しいとの事であった。

まだ朝には少し早い暗い時間に、お店の離れの住まいで雪乃は目覚めた。時差の関係で体調と時間が噛み合わないでいた。祖父は既に入院していた。
この時間は寒いけれども朝凪のために風もなく庭には枯れ葉がちらほら落ちていた。

「雪絵さん。ランチに行こうかねえ。そしてお祖父さんのお見舞いも兼ねてね。」
と母が言い出して雪絵が黙っていると、さらに続けた。
「食べたいものあるかしら。和食でも中華でも好きなもの食べに行こうよ。そう言えば暫くお肉を食べてないからランチ程度なら鉄板焼きステーキなんてどう?」
「お母さんに任せるわよ。」
「はい。それじゃ手配しておきますからね。時間になったら呼びに来るからね。」
雪乃はランチよりお祖父さんの事が気掛かりだった。

ランチが済み病院の帰りに新宿御苑を望む高層ビルのカフェで二人は話し込んでいる。祖父の体調が思わしく無いからこれからの事を話しておきたいようなのである。母は師匠にも相談してあるらしく要領よく話してくれた。
雪乃がこのお店を継ぐのか継がないのかの二択であった。それを年内に決めてとのことなのだ。決断は急を要するらしい。どうやらそれ程までに祖父の容態が切迫しているのかと心配であった。

何日か過ぎていた。そのあいだ祖父に面会して話しを聞いた。師匠にも話して相談もした。誰もが言うのは雪乃のやる気と店を継ぐ気があるのかとの事らしい。継ぐのであれば「キッチリと覚悟が要るよ。」と言われ、それからの道筋はしっかり出来てるようだった。

数日が過ぎ雪乃は意を決っした。
「お母さん。雪絵にこのお店を継がせて下さい。しっかりやります。」
と言って手を着いた。
「病院のお爺ちゃんにも話しておいて下さい。雪乃は頑張りますからと。」

次の日、雪乃は母に告げてロンドンに戻って行った。



文披31題  そのニ十五夜「カラカラ」

雪乃は酔いが回って来たらしく饒舌になり自由研究が何だったのか話し始めた。

「私ね。このお店を継ぐのよね、この秋にはお爺さんが修行した料亭に行って接客を学んで来るの。いつ戻れるかわからないけど身につけて来るの。お爺さんはもう引退させてあげたいしね。母も早く雪乃にお店を任せてあちこちに旅行したいとか言ってるの」
「私はこれまで好き勝手に何でもさせてもらって感謝しているの。お爺さんが倒れて私なりに考えたわ。」
雪乃は一気に話し終わると、喉がカラカラだったのかお酒を飲み干した。少し考え込んでからまた話し出した。

「だからね。京都へ行く秋までは雪乃の自由にさせてと交換条件では無いけれどね、母にお願いしたわ。そしたら雪絵も子供じゃないし立派な大人だから好きになさい。って言ってくれたの。嬉しかったわ。」
そう言ってお酒をすすめてくる。お酌する動作もすっかり跡取り娘の所作が板についている感じであった。

「ところで、あの花火はいつ焚きますか。」
話題を花火に変えた。疑問がいくつかあったので、そろそろ聞き出そうと振ってみる。
「そうよね、いろいろ腑に落ちない話しばかりでびっくりなさったでしょう。ごめんなさい。」
と言ってこれまでのいきさつを話し始めた。雪乃は去年の暮れからお店の手伝いのために帰国してこれからの準備を進めていた。落ち着いたのを見計らって急ぎロンドンに戻ったのは修士課程をせっかくこれまで学んだので修士論文を仕上げて卒業したかったのだ。

二月末にひと通り蹴りを付けて帰国した。以前手習いしていた茶道を始めるため師匠の教室にまた通い始めたのだ。

桜が咲く三月の末に師匠の茶室の庭を手入れしている男を見て雪乃は視線を奪われたらしい。何方だろう?初めて見かける人だわ。と目で追っていた。この年齢で灰草色の作務衣姿が似合う彼の姿が雪乃には粋な感じに見えて心を捉えていた。あら、素敵な方ね。と思い少し目で追った。程なく彼は蹲(つくばい)に仮置きした一輪の侘助の蕾を取り出し待合から部屋へと消えた。
雪乃が初めて夢を見掛け彼女の胸にひとひらの印象を受けた時だった。

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