漱石と「長椅子」

徳川の治世、御鷹部屋御用屋敷や御留場であった地に、維新後「神葬墓地」が造られ「雑司ヶ谷旭出町墓地」を経て「雑司ヶ谷墓地」となり、その後三度名を変え今に至るのが、雑司ヶ谷霊園である。
ここには、漱石の墓がある(埋葬当時は雑司ヶ谷墓地)。この墓は鏡子夫人の妹時子の婿で建築家鈴木禎次(ていじ)の作だ。漱石愛用の長椅子をモチーフとしたものだと言う。

鈴木禎次は静岡(駿府)に1870(明治3)年生まれた建築家だ。名古屋を拠点に活躍し「名古屋を造った建築家」と評される。4歳上の漱石は、前述の通り相婿である。
現存する彼の作品のうち一棟が都内に残されている。「上野松坂屋」だ。残念ながら2007年に改修工事が完了し当時の外観は拝めなくなったが、紛れもない鈴木禎次1929(昭和4)年の作品である。
この上野松坂屋だが、江戸中期に尾張(名古屋)の伊藤屋が買い取った上野の呉服店松坂屋が元である。伊藤屋は江戸っ子に親しまれた屋号をそのまま残したのだ。その後尾張徳川家、加賀前田家の呉服御用となり、上野寛永寺の法衣の販売も行っている。大正になり近代的なビルに建て替えられるも震災で倒壊、元が尾張名古屋の伊藤屋である、その再建に際し禎次に白羽の矢が立ったのは至極当然かも知れない。

処で、この漱石の相婿の意匠した墓にケチを付ける心算は毛頭ないのだが、正直な所を申しあげれば、何故椅子にしたのかと疑問に思う。
世に総理/社長の「椅子を狙う」等と言う言葉がある。言うまでもないが「地位を狙う」と言う意味である。つまり椅子とは「地位」のことに他ならない。これは何も日本に限った話しではない。例えば英語でchair manと云えば議長など組織・団体の長のことを指す。また、「city」とは元来「教皇座」と言う教皇の椅子の置かれた特別な教会(カテドラル)のある都市を指した。
反権威主義的であると言えば過言であろうが、漱石は肩書や権威、権力に対し少々斜に構えた所がある。有名な「博士号辞退事件」などその最たるものであろう。漱石は妻鏡子に「先達、御梅さんの手紙には博士になって早く御帰りなさいとあった。博士になるとはだれが申した。博士なんかは馬鹿々々敷。博士なんかを難有る様ではだめだ。」と書き、また「まだ教授にならんか」と言う土井晩翠の年賀状に対し「人間も教授や博士を名誉と思う様では駄目だね。失楽園の訳者土井晩翠ともあるべきものが、そんな事を真面目にいうのはよくない。漱石は乞食になっても漱石だ」と返事をしたと門下生森田草平に認めた。いちいち挙げ連ねればそれこそ枚挙に暇がない。大変な偏屈親父である。
鈴木禎次にしてみれば相婿金之助への親しみから、故人の愛用品に着想を得て意匠した、ただそれ丈のことだったかも知れない。しかし端から見れば「日本文学会の玉座」宛らである。教授にはならん、博士も貰わんと言う、そう言うものを有難がる者を馬鹿だと言う。chair man of literaryなどと言われて喜ぶ漱石ではないと思うのだ。

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