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90歳になる認知症の母親が回復した理由

 コロナの頃は、なかなか母親に会いに行くことができませんでしたが、今は月に一度のペースで、新幹線と在来線、さらにローカル線とバスを乗り継いで施設を訪問しています。さすがにコロナ禍の4年間は、ほとんど会うことができず、電話でのやり取りとなりました。その間、認知症もかなり進んでいったようで、電話での会話は「モノがなくなった」「誰かがお金を取った」など、典型的な症状でした。

 ついに90歳を迎えた昨年の夏には、認知症の病状が進んだため、これ以上その施設ではお世話できない、対応できないと言われ、別の施設に引っ越すことになりました。

 認知症の病院を探していたら、高校時代の友人が大学の附属病院を紹介してくれました。郊外の高台にあるその病院までは施設からかなりの距離でタクシー代も毎回結構かかりました。診察を進める中で症状からアルツハイマー型だろうと診断し、まずは薬を少しずつ少しずつ。時間の経過とともに、徐々にグラム数を増やしていきました。専門の治療を受けながら、薬が効果的に効いてくるだろうと期待していました。

 母親は、その後もとくに変化なく、様子を見ていましたが、何度目かに訪問したときに、食欲がなくなり、急激に痩せていきました。10月のある朝、施設長から電話があり「危篤状態なので、すぐに来てください」と連絡があり、夕刻に駆け付けてみると、ベッドでの母親の姿はただ眠っているだけの状態で、高熱、SpO2の数値も急激に低下し、吐く息だけがかすかに聞こえていました。生気はなく、何も飲めない食べられない状態でした。

 施設長の話では毎回毎回、認知症の薬はしっかりと飲ませていたそうです。薬があたかも食事の一部となっていたのかもしれません。最期を覚悟しつつ、「薬はやめてほしい」とお願いしたところ、この状況なのでと理解してくれました。その後、少しずつ意識は回復し数値も改善してきたので、施設を離れました。その後しばらくして食事も取れるようになり、顔色、表情もよくなり、何より会話ができるようになりました。

 認知症の薬は一旦飲み始めると死ぬまで飲み続けることになります。増えることはあっても減ることは決してない薬の量。効果を期待しての服用のはずが、副作用であらたな病状を引き起こしていることに気づかないままでした。

 一昔前は、病気ではなく老化のひとつだった認知症。病名が生まれ、治療を目的に薬が開発され、投薬によって元気になっていけばいいのですが、そうでないケースもあります。思い切って薬を断ち切ることができたこと、それがいまの母親の日常につながっていると感じます。危篤状態になって発見したことでした。


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