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ないならないなりに

ある程度の基準を満たしてしまうと、それを失った時に元になかなか戻れないことがある。

失う怖さをなんとなくだが肌で感じるのだろう。
失わないように必死になってそれを守ろうとする。

でもそれは逆効果だったりする。
守ろうとすればするほど、本当に大切なものが見えなくなり、そしてその大切なものはどんどん遠のいていく。

気づいた時はもうそれは手の届かないところに行ってしまっていて後で後悔したとしてももう手遅れなのだ。

個人的な感覚だが、一人一人その大切なものの基準や価値は異なるのは当然だと思うが、それを失くすという想像ができる人は少ないと思う。

なぜなら、すでにそれが当たり前になってしまっているから。

あるべきものになったしまった以上、それが消えて無くなるという想像さえできないほど満たされているのだろう。

ある意味とても素晴らしいことだと思う。

ただ、その水準を保つために何かを犠牲にしている事も事実であり、それで成り立っているその幸せというものは本当の幸せと呼べるものかと言われたら分からないというのが本音だろう。

それで良しとする人もいる。

例えばお金。
これが沢山あることが幸せと思う人もいればお金は無くてもいいという人もいる。

では、お金はたくさんもっているが寝たきりで枕元に山ほど美味しい食べ物が積んであっても食べたくても食べれない人がいたとする。
これは幸せなのか?

逆にお金は全くないが人や物に恵まれてなんとか生きているが一切の贅沢が出来ない。
これは幸せなのか?

見方によるが個人的にはどちらも幸せではないのでないかと思う。

究極の話かもしれないが、自然の摂理以外の価値観や基準などについて最初からあるべきものなど本来は何一つなく、現在あるそれらに対して我々が勝手にあるべきものとして捉えているだけなのかもしれない。

水を飲めば水の味がする。
という事を聞いたことがある。

すごく深い言葉だと思う。

水の味。
喉がカラカラに乾いた時にゴクゴクと飲む水の味は一度は経験したことがある人が多いと思うが、それが最高と思えるくらいに幸福感が湧き出てくる。

普段はなんの変哲もないただの水がある意味ご馳走なのだ。

世の中に溢れるたくさんの食糧の中での水の価値に対して幸せというにはあまりにも貧相な考え方かもしれないが、それが生命の根源なのだ。

全てありすぎても良くない。
逆になさすぎても良くない。

要は今ある現実に関してどんな現実になったとしても常に満足できる心でいられるか。

そう思って生きていくことが本当の幸せというものを考えるキッカケになるかもしれない。

ないならないなりに、今ある現実の中で足りるように心をコントロールできるようになればこれほど幸せなことはないのかもしれない。

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