カントの三批判書の接続


カントは18世紀末~19世紀初頭に活躍した哲学者で、「カント以前のすべての哲学はカントに流れ込み、カント以後のすべての哲学はカントから流れ出た」と言われています。

そもそもカントの思想的課題は当時の欧州哲学の二大潮流だったイギリス経験論と大陸合理論の統合でしたし、カント以後の哲学者はカントの批判帝継承という形で論じている人が多いです。

特に大きいカントの功績としては、

1.私たちの認識の構造を探究したこと→「理論理性批判」
2.自由意志と道徳の関係を探究したこと→「実践理性批判」と「判断力批判」

だと言えます。

認識論と『純粋理性批判』

カントの認識論は命題の2類型から始まります。

1.分析的命題:主語が述語に含まれている命題

例えば、「犬は哺乳類だ」というもの。述語である哺乳類は犬より広いカテゴリーです。分析的命題は経験と関係がなく、論理的に矛盾がなければ成立します。よって、神の存在証明などはこの方法で行われ、これは絶対的に確実な真理から演繹を行う大陸合理論の方法だと言えます。

2.綜合的命題:これは、経験から得られた命題のみが真理であるということです。逆に言えば、たとえ命題が真に見えても経験できなければ真理ではないのです。これはイギリス経験論の方法です。

カントはここで疑問を投げかけます。経験で得られたものしか真ではないなら、その経験(認識)はいかにして成立しているのか?

カントの言葉で言えば、経験のア・プリオリ(超越論的)な条件を問うということを行います。カントは「純粋理性批判」という書物でこの問題に取り組みます。

その結論は私たちの認識は時間と空間の直観形式によって成立しているということです。人間の経験は認識された瞬間、「すでに」時間・空間の直観形式になっています。

感覚器官による経験的直観は空間の形式に従います。視覚や聴覚から得られた情報をもとに何がどこにあるのか認識するということです。というかそのような形でしか認識が出来ません。また、そのあとは意識によって時間感覚が形成されます。空間内にある物体や感覚の変化によって時間が過ぎたという認識が起こります。

カントの認識論のポイントは、空間・時間の直観形式が人間の認識の構造なので、それ以外の方法での認識は存在しない。と述べていることです。これは、時間と空間を逃れるもの(例えば、神や霊魂、自由など)は存在しないと述べているのではありません。

それらは存在するかもしれないが、人間の認識能力では存在するかどうかわからないということです。

カント以前の認識論は、「対象をありのままに認識できる」という前提に立っていました。しかし、カントの認識論では人間が対象を認識する時、それは私たちのやり方(時間・空間の直観形式)でしか認識できていないと主張します。これを「認識が対象に従う(ありのままを捉える)のではなく、対象が認識に従う(人間がある意味勝手に対象のあり方を構成する)」ということです。

道徳と『実践理性批判』

『純粋理性批判』によって、近代科学の方向性が定まります。つまり、私たちの直観形式においてにみ認識可能なものを探究しようということです。

では、自由・霊魂・神などは認識できないから考えても無駄ということでしょうか?カントは続編の「実践理性批判」とう書物でその問題について考えます。その結論は、これらはやはり実在はしないかもしれないが、人間社会を営むために「要請」される、と論じました。

私たちはありのままの世界を認識しているわけではなく、人間に特有の人倫的世界を生きているからです。実際に存在しているかは保留して、自由・霊魂・神が人倫的社会に必要ならば存在していることにして社会を営んだ方が良いだろうというのがカントの考えです。

それでは、カントの自由・霊魂・神論を見てみましょう。

カントは自由を道徳律との関係で捉えます。自由と責任は結びついているのです。

逆に、もしすべてが決定論であれば私たちの行動は自由に行えません。自由に行えないならば責任の追及も起きません。最初から決まっていたことを責めても仕方ないがないからです。

だから自由の根底には道徳(責任)があるし、道徳律の実践(責任を取るということ)を通してしか自由は認識されません。

カントは霊魂の不滅という問題も道徳との関係で捉えます。

道徳的実践が大事と言っても、やはり肉体的制限があるのではないかという疑問点が出てきます。どうしても寿命というものがあるからです。

そこでカントは霊魂は不滅であることを永遠の道徳実践の条件とします。

最後に、神の存在は徳福一致の保証として要請されます。道徳的実践をすると損をする(正直者がバカを見る)世界だと、道徳的実践が広まることはないので、徳福一致を保証する神の存在が、道徳的実践の条件だとされます。

「実践理性批判」では、道徳的実践の方針も述べられています。

1つ目が「汝の意志の格率が常に同時に普遍的法則として妥当するように行為せよ」というものです。

分解して説明します。「汝の意志の格率」は、「自分の理性で定めた道徳的ルール」です。「常に同時に普遍的法則として妥当する」は、さきほどの「格率」と普遍的な道徳が一致する事態を指しています。

つまり、理性を働かせて自分の道徳的実践は皆に認められるものにせよということです

ここでカントが追加で主張しているのは、その格率は無条件で行わなければならないということです。体調が悪いからとか、状況が違うからといって実践を辞めてはならないものを、格率とせよと述べています。

これはなぜかと言うと、状況次第で実践を変えていたら、それは結局自分の利益を優先しているのであって、道徳的実践ではないからです(カントからすれば)。

次の方針は、「他の人を常に手段としてではなく、目的として扱え」です。

これも自分の利益を優先してはならないということです。ちなみに、カントは国家を1つの人間として捉えており、他国から利益をむさぼろうとする戦争を禁止するために「永遠平和のために」という論文を執筆します。「永遠平和のために」は国際連盟の理念となったそうです。

自然の合目的性と『判断力批判』

「実践理性批判」で述べられた道徳論は社会レベルでの実践が可能なのでしょうか?

これに取り組んだのが「判断力批判」です。

「判断力批判」では、自然の2類型が提出されます。

・自然一般:すべてが決定論で動いている(人倫的社会との対比)

・特殊的自然:生物のことを指し、目的論的に動いている

人間は生物なので特殊的自然に属しています。カントによると、人間の目的な道徳的実践による最高善の実現なのです。

だから、カントは実践理性の完全な支配を未来に求めました。いずれ人間が互いに目的として扱い合う共和制が成立し、そこから諸国家連合が誕生する、と考えたようです。

まとめると、『純粋理性批判』によって、ざっくり文系学問と理系学問の線引きが図られました。経験可能なものを徹底的に探究するのが理系で、経験できるか不明だが人倫的社会で重要なものを探究するのが文系です。

『実践理性批判』では、どのようにして道徳的実践が行われるかが述べられます。『純粋理性批判』の成果から考えれば、『実践理性批判』はカントが文系学問をやってみたということになります。

『判断力批判』では『実践理性批判』の成果が社会的に可能なのか吟味されています。

『純粋理性批判』から『実践理性批判』の流れは見事だなと思いました。実際に、私たちはこの枠組みで理系や文系について考えています。

ただし、『判断力批判』の実践理性の支配は本当に起きるのか自分では確信が持てていません。カントは大学院の研究でも絡んでくるので、考察を深めていきたいと思います。

参考文献
Routledge companion to Social and Political Philosophy 2016 Routledge
Bertrand Russell 2004 History of Western Philosophy Routledge
峰島旭雄 1989 概説西洋哲学史 ミネルヴァ書房

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