マレー世界はナショナリズムいらずだった?

イントロダクション
こんにちは、こんばんは、おはようございます!Renta@マレーシアから国際関係論について考える人です!今回のnoteは、国民国家とプラトン哲学の関係の続きです。
noteのハンドルネームに「マレーシア」と入れているのに、これまで全然マレーシアの話をしてこなかったことに気づきました…。
ということで、これからは、しばらくマレーシア関連の記事を書いていきます。

今回のnoteのテーマは以下です。

  • 領土ではっきり国境をわけてしまうヨーロッパ型の国民国家の考え方の源泉をフランスの哲学者ジャック・デリダのプラトン読解から考察する

  • マレー世界の近代以前の国家の考え方を紹介し、ヨーロッパのそれと比較する

だから、このnoteを読むメリットは以下です。

  • 国民国家のアイデアのどのあたりがヨーロッパ的なのかわかる

  • マレーシアやインドネシアがヨーロッパの国民国家の枠組みの中で生まれた国家だと分かる

国民国家は国民/非国民の階層秩序的二項対立で出来ている

国民国家の特徴の1つに、「国民は外部との分断が前提にある。」というものがあります。

より正確には、以下の内容です。

国民は、限られたものとして想像される。なぜなら、たとえ10億の生きた人間を擁する最大の国民ですら、可塑的ではあれ限られた国境をもち、その国境の向こうには他の国民がいるからである。いかなる国民もみずからを人類全体と同一に想像することはない。

【ベネディクト・アンダーソン『増補・想像の共同体─ナショナリズムの起源と流行─』白石隆・さや訳(NTT出版、1997年)。】

国民国家の国境の向こうにあるのは、また別の国民国家です。国民国家は、外部との分断(国境)が前提として、作られたものだと言えます。

※コトバンクによると、「可塑」とは「思うように物の形をつくれること。塑造ができること。」という意味です。ここでは、国境を新しく作ったり引き直したりできるという意味で捉えてください。

これはプラトン哲学の表れではないでしょうか?

つまり、国民/非国民の階層秩序的二項対立を作る→国民を優位な方に置く。国民ではない他者(非国民)を劣位に追いやる(実際に、国民と非国民で法的な扱い方は変わってくるし、歴史的に追放された非国民はいたりした)ことで、ピュアな国民国家を作ることができるのではないしょうか?
実際に、プラトン哲学について、フランスの哲学者であるジャック・デリダはこのように述べています。

デリダにとって、プラトン主義形而上学が他者排除の暴力であることは動かない。その決定は「支配」ー単に言説の世界での概念的支配だけではなく、「現実の」法的・政治的支配ーの秩序を作り出す。階層秩序的二項対立は、その支配の主要な形式に他ならない(太字筆者)、この支配は歴史的にはとりわけ「西欧の排他性」として現れ、近代にはヨーロッパの「ロゴスの帝国主義」が世界中に自己を押し付けるにいたった。

高橋哲也著『デリダ 脱構築と正義』、講談社学術文庫

階層秩序的二項対立は支配様式であるようです。なぜなら、このアイデアに基づいて法が定められるからです。また、西欧/非西欧という階層秩序的二項対立の考え方は、植民地化につながったと考えることもできます。

なぜなら、「野蛮・未開な国だから搾取しても構わない」と考えても「野蛮・未開な国だから介入して導いてやらなければならない」と考えても、西欧と非西欧に対して優越していると考えている点では、同じだからです。

プラトン哲学は国民の発生の直接的な原因ではないが、思想的な影響を与えた

ただし、プラトン哲学だけで国民国家にたどり着くかと言われればそんなことはありません。国民国家の発生は18世紀末~19世紀ごろとするのが一般的です。プラトンが活躍したのは紀元前400年~300年代なので、単純に時間がかかりすぎです。だから、直接的な原因としては、もちろんベネディクト・アンダーソンが述べたものが提示されます。

つまり正確には、元々「名づける」という道具を使って階層秩序的二項対立で物事を考えるヨーロッパ文明に、出版資本主義という技術の発展やフランス革命という歴史的事件が起きてしまったがために、国民国家が発生したのではないか、ということです。
また、国境を接した自国/他国に階層秩序的二項対立をナショナリズムというが、西洋文明/非西洋文明という階層秩序的二項対立に基づいて行われたのが帝国主義であると言えます。

マレー世界の民族の考え方(playing relatives)と国民という概念の受容

植民地化を推し進めた西欧はとにかく民族をどんどん分類しました。その際、上で考察したような階層秩序的二項対立を使って、分類を推し進めたのです。
すなわち、

  • 民族や文化は言語と結びついている。言ってしまえば、言語によって民族をわけることができる

  • それぞれの民族には中心となる言語が存在し、それ以外の言語や亜流のものは除かれていく

ということです。
これらは、自分たちが経験した国民国家の成立と同じ考え方をマレー世界に適用したものだと言えます。しかし、マレー世界ではまったく異なった仕方で民族と言語の繋がりが語られていました。
マレー世界のマレー民族性(Malayness)は流動性(fluidity)にあると言われています。
これはつまり、マレー世界には模範となる中心的な言語や方言が存在しないということです。基準が存在しないので、階層秩序的二項対立を使って、内と外を分割することはできません。

マレー世界におけるマレー語の作用は、”親戚ごっこ”(playing relatives)にあります。「ごっこ遊び」なので、誰が本来のマレー人なのか、誰が最上のマレー人なのか、もしくは誰が既存の秩序への挑戦者なのか、そんなことはどうでもいい、というのがplaying relativesの考え方です。
しかしそんな”ごっこ遊び”の中で、我々は似た者同士だ、共同体の一員だと感じることは喜びであるはずです。マレー世界での考え方は、所属意識を国民国家を作らずして感じさせるものだと言えます。

まとめ

マレー世界の民族の考え方をもとにすると、マレーシアやインドネシアはマレー世界よりはヨーロッパの考え方に基づいて、建設された国家だとわかります。なぜなら、経路に違いはあれど、どちらもある形態のマレー語(インドネシア語)を国語として定め教育・出版に用いているからです。言い換えれば、何か1つのものを正しいと定め、他のものを方言としてしまうため、言語の階層秩序的二項対立を作ってしまっています。

しかし、これはマレーシアやインドネシアが元々マレー世界にあった考え方を大事にしなかったと責めるものではありません。植民地時代の力関係を考えると仕方ない部分もあったと考えられるからです。

インドネシアやマレーシアがどのようにヨーロッパ型の国民国家になっていったかの詳しい経路は、また今度書いてみようと思います。

前後編最後まで読んでいただきありがとうございました!

参考文献

  • Maier, H. (2004) We are playing relatives: A survey of Malay writing, Leiden: KITLV Press, pp. 1-34

  • 高橋哲也『デリダ 脱構築と正義』、講談社学術文庫

  • ベネディクト・アンダーソン『増補・想像の共同体ーナショナリズムの起源と流行ー』白石隆・さや訳(NTT出版、1997年)


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