国民国家の思想的源流はプラトン哲学?
イントロダクション
こんにちは、こんばんは、おはようございます!Renta@マレーシアから国際関係論について考える人です!今回のnoteは、国民国家とプラトン哲学の関係についてです。
noteのハンドルネームに「マレーシア」と入れているのに、これまで全然マレーシアの話をしてこなかったことに気づきました…。
ということで、これからは、しばらくマレーシア関連の記事を書いていきます。
今回のnoteのテーマは以下です。
領土ではっきり国境をわけてしまうヨーロッパ型の国民国家の考え方の源泉をフランスの哲学者ジャック・デリダのプラトン読解から考察する
マレー世界の近代以前の国家の考え方を紹介し、ヨーロッパのそれと比較する
だから、このnoteを読むメリットは以下です。
国民国家のアイデアのどのあたりがヨーロッパ的なのかわかる
マレーシアやインドネシアがヨーロッパの国民国家の枠組みの中で生まれた国家だと分かる
そもそも、”国民”という概念はどんなものを指すのか
国民の4つの特徴
まず”国民”という概念の特徴を紹介します。
特徴1:国民は「想像の共同体」である。
例えば、同じ日本人だというだけで、同じ集団に属している気持ちになることがあります。(WBCとかオリンピックの時を思い出してみてください)
特徴2:国民は外部との分断が前提にある。
国民が統治する国民国家の国境に向こうにあるのは、また別の国民国家です。国民国家は、外部との分断(国境)が前提として、作られたものだと言えます。
※コトバンクによると、「可塑」とは「思うように物の形をつくれること。塑造ができること。」という意味です。ここでは、国境を新しく作ったり引き直したりできるという意味で捉えてください。
特徴3:国民はフランス革命から生まれた。
革命前のフランスでは、アンシャン・レジームといって、国王や聖職者たちが権力を握っていました。それに不満を持った農民階級の人々が最終的にフランス王をギロチンにかけてしまったのです。王を倒したのはいいのですが、国家統合の旗印を失ってしまったため、(特にフランスで)国民が統合の拠り所として”想像”されたということです。
特徴4:国民は(建て前は)平等であり均質である。
国民には色んな社会的地位や階級にいる人たちが集まりますが、すべて”国民”と名付けられます。それによって、同じ国民を優遇する感情も生まれます。例えば、留学生への奨学金より国内の給付型奨学金に税金を使って欲しいという感情がそうです。
国民と時間意識
加えて、ベネディクト・アンダーソンはナショナリズムの発生に、時間意識の変化が必要だったと述べます。
近代の時間意識(均質で空虚な時間):
この同時性の観念の創出をもって、「水平・世俗的・時間横断的」なタイプの共同体を想像することが可能になりました。
そしてこの同時性の観念の創出を可能にしたのが、印刷物の生産・流通の発達です。なぜなら、一定領域で起きたことを直ちに知らせることで、大阪と東京は同じ時間軸で生きていると実感することができるからです。逆に、あまりニュースが入ってこない地域は共同体の外にいるということになります。
国民国家とプラトン哲学
最初の国民国家はフランスだと言われています。だから、国民国家は非常にヨーロッパ的なものの見方に基づいています。それは一言で言えば階層秩序的二項対立であり、プラトンの哲学に源流が見られます。
「全西洋哲学史はプラトン哲学の注釈の歴史だ」といった哲学者もいますし、国民国家は非常にヨーロッパ的なアイデアだということを傍証するために、プラトンについて知るのは有効な筋道だと思います。
というわけで、プラトンについて批判的な読みを試みたフランスの哲学者ジャック・デリダのプラトン読解の力を借りてみようと思います。
プラトン哲学のキーワードは階層秩序的二項対立
プラトン哲学のキーワードは、階層秩序的二項対立です。
二項対立とは、「二つの概念が矛盾または対立の関係にあること」です。例えば、右利き/左利き・内側/外側という組み合わせですね。資本主義/共産主義、紅組/白組という組み合わせもありそうです。
次に階層秩序とは、「上位・下位関係に整除されたピラミッド型の秩序」です。ヒエラルキーと言い換えることができます。
つまり階層秩序的二項対立とは、「二つの概念が対立しており、そこにはヒエラルキーが(片方が優位でもう片方が劣位である関係)が存在している。」ということを指します。
つまり、プラトニズムの哲学は以下二つを待望しています。
階層秩序的二項対立の劣位な方の概念を排除すること
階層秩序的二項対立の優位な方の概念がピュアな形で世界に登場すること
また、階層秩序的二項対立を作るためには、対象を「名づける」ことが必要です。でなければ、概念化ができないからです。「理解はできないが同じような言語を話す人々」という描写の仕方ではまどろっこしいので、バルバロイ(野蛮人)と名付ける必要があります。
デリダによれば、この名づけること自体が暴力性を孕んでいるのです。
プラトンの哲学は国民国家の出現に不可欠なものでした。なぜなら、国境の内側と外側で人々を分類し、内側にいる人が国民であり、優位な存在であるとみなすのがナショナリズムであるからです。
今回はここまでです。プラトン哲学がどう国民国家の出現に不可欠なのかは、後編のnoteに書きます。
ここまで読んでいただきありがとうございました!
参考文献
高橋哲也『デリダ 脱構築と正義』、講談社学術文庫
ベネディクト・アンダーソン『増補・想像の共同体ーナショナリズムの起源と流行ー』白石隆・さや訳(NTT出版、1997年)