国際秩序のモデルを使って見る近現代史3~戦間期、第二次世界大戦、戦後~

イントロダクション
こんにちは、こんばんは、
おはようございます!Renta@マレーシア
から国際関係論について考える人です!
今回のnoteは、国際秩序のモデルを使って
見る近代現史その3です。
範囲は戦間期から第二次世界大戦です。
現在の国際秩序は、アメリカの国力に依るところが大きいでしょう。
その端緒となった時代が戦間期から
第二次世界大戦です。

今回のnoteを読むメリットは以下です

  • 国際連盟と国際連合の背景にある理念がわかる

  • 戦争後の和平交渉の難しさとその理由が、恐怖と恨みだとわかる

そもそも国際秩序のモデルって何だ?、戦間期とかいう中途半端なところではなくその前の出来事から知りたい!という方は、「国際秩序のモデルを使って見る近現代史」のマガジンを作っていますので、ぜひご覧ください

では、内容に入っていきます!

第一次世界大戦を以てヨーロッパ主導の勢力均衡という国際秩序が崩壊した

さて、ヨーロッパの絶頂期と言えばだいたい
18世紀~19世紀です。
産業革命や非ヨーロッパ世界の植民地化を
通して、世界中に力を示していたのがこの時代
です。

その絶頂期は、第一次世界大戦を以て
終わります。
第一次世界大戦の2つの帰結がヨーロッパ主導の
国際秩序を終わらせました。

帰結その1:アメリカ、日本という非ヨーロッパ勢力の台頭

第一次世界大戦は、ざっくり言えば
「英仏露vs独墺」という図式です(小国やヨーロッパ外も入れるとだいぶ異なります)。

そして、主戦場は当然ヨーロッパでした。
当時の大国たちが自らの領土を戦場にして長期間戦ったため、当然国力は疲弊します。

その間に、ヨーロッパにお金を貸したり主戦場
から離れたところで軍事的支援を行った米国と
日本が新たに非欧州の大国として浮上します。
日本はともかく、米国が非欧州というと
少しややこしいので説明します。

米国とヨーロッパの最大の違いは、政治に対するスタンスにあります。
米国はイギリスに対する革命によって成立した国です。だから、自分が関わりたくなるような
クリーンな政治を求めます。
それに対して、ヨーロッパでは最初から国が
ありました。好む好まざるに関わらず、政治には権力闘争というドロドロした部分があると認める傾向にあります。

国際政治で言うと、権力闘争とは軍事力の
バランスの話になります。
それぞれの国が軍事力を増強することで、
牽制し合う。その結果、戦争を防ぐことが
できる。という国際秩序のモデルをバランスの
体系と言います。

端的に言うと

  • 米国のスタンス:権力闘争たるバランスの体系を嫌う

  • ヨーロッパのスタンス:バランスの体系も国際秩序の選択肢に入れる

このスタンスの違いが、戦間期の国際秩序の構想とその実践に乖離を生みます。
次節と次々節でその乖離を見ていきましょう。

ウィルソン大統領はコミュニティの体系による国際秩序を構想しようとした

まずは構想からです。バランスの体系を嫌う
アメリカからどんな国際秩序構想が生まれたか
見ていきます。フォーカスするのは
ウィルソン大統領です。

ウィルソン大統領は元々、議会政治を専門とする政治学者でした。
ジョンズホプキンス大学で博士号を取得します。
米国大統領としての任期は1913年3月4日から1921年3月4日まで。第一次世界大戦勃発前から
終戦まで大統領でした。

学者としても分析家としてもほとんど排他的な
までに英米の議会政治に関心を持っていたようで、国際情勢などにはたまにコメントする程度だったそうです。

そんなウィルソン大統領はコミュニティの体系を軸に戦後の国際秩序の構想を作りました。
コミュニティの体系とは、国際機構を作り、
そこで議論を通じた民主的プロセスによって平和を達成していく考え方です。

ウィルソン大統領は議会政治が専門だったこともあって、以下のように考えました。

  1. 英米の伝統である議会政治の分析をし、そのアナロジーを国際社会に用いることで、人類の議会を設立する

  2. アナロジーを具体化させたものとして、国際連盟を設立する

この構想にはウィルソン大統領の以下の考えも
背景にあります。

  • アメリカの使命:
    世界中に民主主義を普及させ、道徳的な政治体制を結集させて「国際共同体」を構築すること

  • 人間の理性への信頼:
    パワーや利益などではなく、道徳や政治理念を実践することで平和が可能だと考えた

ですが、この構想通りに国際政治は実践されませんでした。
その流れを次節で見ていきます。

コミュニティの体系の実践

そもそもアメリカは国際連盟に参加しなかったのです。国際連盟を提案したのはウィルソン大統領なのですが、アメリカ上院が国際連盟規約の批准を拒否してしまいました。
アメリカ国民の多くは依然として、薄汚れた権力政治が渦巻く旧大陸の国際政治には関与したくないと考えていたようです。

大国に躍り出た米国が国際連盟から退いたことで、コミュニティの体系の実現は困難になりました。

代わりに、国際連盟は新ヨーロッパ協調の舞台となりました。
新ヨーロッパ協調とは、バランスの体系と
コンサートの体系の組み合わせです。バランスの体系は先程説明した通り。コンサートの体系は、
(特に)大国たちが価値観を共有し、定期的に外交会議を設けることで紛争解決や利益の共有を重ねていく国際秩序です。

第一次世界大戦後のヨーロッパの大国は英仏独
なので、それぞれの事情とどうやって協調
していったか見ておきましょう。

  • フランス

    • 国土に攻撃を受けたこともあり、ドイツへの恐怖と感情を持つ

    • アメリカがヨーロッパ問題に関与しないので、ドイツとのパワーバランスに不安を抱く

    • ということで、工業地帯であるラインラントを占領する

  • ドイツ

    • 敗戦国なので賠償金が課される

    • そこに加えて、フランスがラインラントを占領してきたので踏んだり蹴ったり

ここで、ドイツとフランスだけがやり合っていては、互いに不安や恐怖や恨みがあって話が前に進まないとわかります。そこでイギリスです。

  • イギリス

    • アメリカは国際連盟に加わっていないので、イギリスがバランスの体系及びコンサートの体系を支えるしかない

    • イギリス当局が考えていた平和の条件は2つ

      1. 英仏独の勢力均衡

      2. ドイツのヨーロッパ協調への帰還

つまり、独仏の調停役を買って出たのです。その担保がイギリスが持つ軍事力と、外交でした。

イギリスのヨーロッパ問題への努力が
結実したのがロカルノ条約です。
内容は以下です。

  1. ドイツ-フランス国境、ドイツ-ベルギー国境の現状維持と不可侵を、フランス・ドイツ・ベルギーが認め、イギリス・イタリアがそれを保障したラインラント条約。

  2. ドイツが、フランス・ベルギー・チェコスロヴァキア・ポーランドの4ヶ国とそれぞれ結んだ仲裁裁判条約。

  3. フランスが、チェコ・ポーランドとそれぞれ結んだ相互援助条約。

これを軸として、1920年代半は新ヨーロッパ協調の時代となります。

新ヨーロッパ協調の挫折

1920年代に栄えた新ヨーロッパ協調は
1930年代初頭に崩れます。
その事件がヒトラー政権誕生と満州事変です。

どちらも力によって、自国の利益と取りに行くという動きの表れなのですが、ここでのポイントは国際連盟事態は力による平和を否定していることです。
だから、日本とドイツを止められませんでした。

アメリカはそもそもいない

  • アメリカはそもそも国際連盟に入っておらず

  • ソ連はフィンランド侵攻によって除名

  • イタリア、ドイツ、日本も脱退

  • 英仏は国連を活用する気なし

だったので1930年代初頭で国際連盟は
なかったことになります。

ということで、1930年代の不安定な時代から
1940年代の第二次世界大戦の時代に突入していきます。

その時に英国首相だったチャーチルは国際連盟の無力さを反省して、
バランスの体系を達成しようと腐心します。

例えば、18世紀の英国政治家大ピットの以下の演説は心に留めていたそうです。

「いかなる国であれ、ある国を将来不変の敵だとみなすことは、弱弱しく子供じみたことである、諸国家の経験ではそのような根拠は見当たらず、また人類の歴史のなかでもそうである」

これを実践するかのように、チャーチルは反共だったけれどもソ連と組み、米英ソで大同盟を作ってナチスドイツを敗戦に追い込みます。

そして戦後の国際秩序が作られていくのですが、いわゆる戦後の国際秩序構想はバランスの体系もコミュニティの体系も組み合わせたものでした。
最後にそれを見ていきましょう。

リベラルな国際秩序

第二次世界大戦後の国際秩序は
「リベラルな国際秩序」と呼ばれています。
これは、国際連合をはじめとする様々な国際機構を利用した国際秩序です。

1945年6月に発表された国連憲章にその特徴が表れています。

国際連合の目的:

1.国際の平和及び安全を維持すること

2.人民の同権及び自決の原則の尊重に基礎をおく諸国家の友好関係を発展させること

また、国際連合は戦勝国の利益の調和は図ろうとしているところが特徴的です。国際連盟が
ウィルソンのほぼ独断で動いたのに対して、
戦時中から米英ソの協調体制が反映されています。国連憲章が発表されたのは終戦前です。

また引用の通り、共通の価値を打ち出しているのもポイントです。これでコンサートの体系のもとを作ることができます。

さらに、侵略戦争を行った国に対して軍事制裁を行えるようになりました。経済制裁しかできなかった国際連盟とは対照的です。

また、総会などの一国一票で物事を決めていく
場も国際連合では設けられています。
その意味で、国際連合はバランスの体系、
コンサートの体系、コミュニティの体系を組み合わせたものといえます。


次回のnoteで、リベラルな国際秩序は実際どれくらい機能したのか見ていきます。最後まで読んでいただきありがとうございました!

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