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社会人になってからの足跡。新卒から現在まで①

1994年4月に社会人デビューしてから、色々な経験をさせていただきました。また、色々な方と出会い支えていただきました。転職も数回していますが、その度に自分の職務経歴書を見て、「信じてもらえるかな・・・」と思うくらい幅が広いです。現在、メインのキャリアは「管理系」とお答えしていますが、そのきっかけとなった人事部業務に携わるまでの経験と経緯を複数回に分けて、書いていこうと思います。(具体的な会社名は伏せさせていただきます。ご興味のある方はメッセージください。)

#転職体験記


就職活動~新卒入社した会社

都内にある大学の農学部を卒業しました。正直、就職活動は行わず大学院に進学したいと思っていましたが、同期の研究にかける熱意を目の当たりにして「自分はむいていない・・」と考え、迷っているうちに4回生の夏になってしまいました。自分は全く焦っていなかったのですが、指導教授にせっつかれてのろのろと就職活動をし始めました。

ただ、何をしたいのか?どんな職業があるのか?自分に向いているのは?全く知識が無い中で、友人に紹介された埼玉県にある「植物工場」の会社に面接に行きました。規模は社員100名(パート従業員含む)30億円くらいの規模の会社でした。

新卒採用第1期での募集で、「研究開発部門」を立ち上げたいので、新卒を採用することにした。「部門の立ち上げを任せるからやってみない?」と言って頂き、なんとなく入社しました。

研究開発部門の立ち上げ

同期は4名で、入社後に各生産現場や営業活動に同行させて頂く、一般的な研修を受けて1カ月経ったころ、社長から「7月から研究棟を作るので、レイアウトと必要な機材をリスト化して。とりあえず3000万円以内で」と指示を受けました。それ以外には具体的な指示はなく、自分達で研究室の機能を考えていくことからスタートしました。そこから半年間はお付き合いのあった種苗会社様の研究開発部門で長期間の研修(修行)に行ったり、品質管理業務を行うための基礎を学ぶために、大学時代の先生に相談して県の施設に基礎を教わりに行ったり、試薬の代理店さんにやりたいことを相談して、機材のリスト化を約半年行っていました。(その間に1名退職・・)

新卒入社した会社で行ったこと

私たちに与えられた業務は
①研究用試験ハウスへのテストプラント設置
②商品の品質管理手法の構築(細菌検査や成分分析等)
③新商品・新栽培方法の開発
ちなみに、「研究室」というのが正式名称で、室長は社長でした。

なので、自分のタスクは自分で考え、管理し、成果の設定を行うことがあたりまえで、良くも悪くもだれも業務については指示をくれません。必要があれば製造現場や営業部門に自ら交渉して業務を行います。(正直、予算については考えたことはありませんでした・・)。

私は同業他社と比較したときに、最も差別化できるのは栽培過程における微生物管理だと考え、品質管理の方針を決めて、実験動物学の考え方「SPF(特定病原菌の不存在)」を導入し管理をすることを提案し、その後HACCP(危害分析・重要管理点)の考え方へシフトしていきました。HACCPは食品衛生管理の手法ですが、この考え方は今でも管理部門の業務に応用しています。3つ子の魂、100までと言われますが、社会人としての基本スタンスが形成されたのがこの会社だと思います。

ある事件により一変した

仕事も軌道にのり、平和で幸せな生活を送っていましたが、ある事件によって一変してしまいます。「O157事件」です。腸管出血性大腸菌O157による食中毒で、原因食材がメイン商材であった「かいわれ大根」が原因と疑われたことで、会社の売り上げは90%が無くなりました。

関西での事件だったのですが、ほぼ全てのスーパーマーケット、市場で流通が止まりました。当時、協会の会長職を務めていた会社だったので、社長はその収拾のために厚生労働省へ、調査と風評被害の対策をお願いしに行きました。

結果として厚生労働省と協会で疫学調査班を作ることになり、そこで出会ったのが当時、東京大学 医学部の講師をされているY先生でした。Y先生は事件後から「原因はかいわれ大根ではない!」と世論を真っ向から否定していました。

疫学調査についても積極的に参加され、公私ともに支えていただきました。Y先生がいなかったら、今の私はいませんでした。

逆境をバネに新商品開発

入社後から品質管理を行いながら、植物の菌叢解析を研究のテーマにしていました。菌叢とは、簡単にいうと存在する菌の種類のことです。植物にも動物にもその表面や内部に種固有の細菌類が常在していて、バリアのような役割を果たしています。

その中で植物由来の乳酸菌を栽培過程で利用し、他の菌が発生しづらい環境を作り、より安全に植物を栽培する方法を発明し(特許取得)、製品化にこぎつけました。この時もY先生、私の母校の研究室の協力がありました。(改めて、感謝申し上げます。)

安全性は大手スーパーマーケットでも確認を行って頂き、販売に至り最盛期の60%程度まで出荷が戻りましたが、約1年間、ほぼ売り上げがなかった期間があり会社は衰退していました。給与の遅配等が起き、結婚したての私は後ろ髪をひかれつつ、転職を決意しました。

「O157事件」は生活を根底から変える大事件でしたが、良いことも沢山ありました。それは色々な人との出会いです。前述したY先生もですが、何もなく普通の生活が続いていたとしたら、お会いする機会が全くなかった方々と出会えたことです。色々な人との関わりは、当然、良いことだけではなく、恐ろしさ、悲しさ等の負の内容もありますが、それらすべてが私の人格形成に大きな影響を与えたと思っていて、一番成長した時期かもと思っています。

生活は安定したけど・・・

2社目は半官半民の検査機関でした。
事件でお知り合いになった方からご推薦いただき、新たな職場で働く機会を頂きました。刺激的な社会人スタートを切った私は、やや疲れていたこともあり、平和で安定している職場がものすごく魅力的に見えました。お給料や倒産に心配をしなくてよい、自分の生活と業務をだけを考えればいい生活がこんなに楽に感じるなんて・・・と感じていました。

一番びっくりしたのは利益を出し過ぎてはいけない事でした。事業会社で利益追求が当たり前で、いかに多くの利益を捻出できるかが勝負の世界にた私には衝撃でした。

再び事業会社へ

紹介していただいたこともあり、最初から2年間は何があっても辞めないと思っていました。(妻に当時の私の様子を聴いたら「死んだ魚の目をしていた」と言われました。)やっぱり、自分で考えて周囲の人を巻き込みながら仕事をするダイナミズムが忘れられませんでした。

今度は自分でしっかりと企業を見極めて、自分の価値を発揮できる会社を探して転職活動を行うことにしました。

次回は、また激動の会社に入社して、その中での経験を中心に書きたいと思います。最後までお読み頂き、ありがとうございました。


よろしければ、続けてお読みくださいませ。

社会人になってからの足跡。新卒から現在まで②
https://note.com/shiny_moraea618/n/n20640b5d1e63

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