散
ここ最近、宇多田ヒカルの曲をたまに聴く。
聴くきっかけは、ミラクルひかるが真似していたから。ミラクルひかるを見るようになったきっかけは忘れた。
宇多田ヒカルの曲が好きかと言われると、「う~~ん」である。好きとか嫌いとかじゃなくて、耳に残る曲だなと思う。お気に入りは「traveling」と「SAKURAドロップス」。
「traveling」はかなり昔にも聞いたことがあるのを覚えている。親が車内で流していたCDだったかラジオだったかで聞いた気がする。なんだか心のどこかで残っている曲。youtubeでMV見たら、「深夜、高速道路走ってるときに良い」ってコメントがたくさんあった。私は車乗らないからわからない。
「SAKURAドロップス」は最近はじめて聞いた。MVがだいぶ気持ち悪かったのでよかった。
途中までいい感じで聞いていたのに、
「好きで好きでどうしようもない それとこれとは関係無い」っていう、最後に無限リピートされる歌詞の意味だけがわからなくて虚しくなった。わからないことに対しても、わからないということは恋愛経験足りてないということなんじゃないかっていうことに対しても、なんだか虚しくなった。
どっちもだいぶMVは気持ち悪いんだけど、曲自体もなんだか気持ち悪いところがある気がしている。そのちょっとした不快感みたいなものが逆に気持ちよくて聞きたくなるところが、宇多田ヒカルの曲にはあるなぁと思っている。
甘ったるいカフェオレの底に沈殿したコーヒー成分味わってるとき。
ちょっと多めの量の山葵を乗せた刺身食べたとき。
みょうが食べたとき。
そんな、好きかと言われたらそうでもないんだけど、無いと物足りないし毎回探してしまう違和感に似たものを感じる。感じません?
喩えが食べ物ばっかりだな。
宇多田ヒカルといえばTwitterでこんなつぶやきをしていた。
https://twitter.com/utadahikaru/status/1693764006010671423?t=Yy32jSaqIPmA5dp0w98GjQ&s=19
私の家庭には親戚付き合いというのがほぼほぼなくて、
母、弟×2、母方の祖父母
で構成されているのみだ(一応)。
死を経験したことがほぼない。ましてや自死した人なんていない。
死を経験したことないくせに、FINAL FANTASY Ⅸのせいで達観しすぎた死生観を持ってしまっているワタシ。
何なら宇多田ヒカルのツイートの「人が亡くなってもその人との関係は終わらない。自分との対話を続けていれば、故人との関係も変化し続ける」というのは、まさにFFⅨの主題そのものであり、
ラスボス手前で主人公ジタンが声を張り上げるセリフはそっくりであるし、エンディング曲の歌詞のラスサビなんか
「私が死のうとも 君が生きている限り 命は続く 永遠に その力の限り どこまでも続く」
である。
ゲームの話は終わらないので置いておくが、とりあえずそんなわけで宇多田ヒカルのツイート見たとき、周りに死んだ人もいないのに「わかる〜」となってしまった。
しかし、私は、たとえば上に挙げた家族が死んだ場合、受け入れられない気もする。
なぜなら、ワタシは、相手に別れを切り出されたときに理由と説明を要求したことのある人間だからである。死と恋愛が必ずしも同じとは言わないけど、パニックになる可能性はありそうである。
とはいえ、恋愛はどうにかなるが死んでしまったものはどうにもならないので、ひとしきり泣いた後に立ち直る気もする。しかしまぁ、宇多田ヒカルの言うように、自殺なら確実に論理的説明を要求するだろうな…。
もともと達観した死生観を持っていても受け入れられるかは別だよな、と思うなどした。
あと、過去の「自分を責めるのは手放す準備ができていないから」という表現が詩人で好きである。
最初から手放せるのはそれはもう捨てているし、「手放す」のにはそこそこの準備がいるんだろうな。
宇多田ヒカルの曲が好きかと言われると「う~~~ん」と書いたけど、こういう人間が創った創作物なので、まぁおそらく好きではあるんだろうな。
私にとっては食べると苦いタイプの曲なので、コーヒー飲む感覚に近いかなぁ。
どうでもいいけど、ミラクルひかる知らない人はyoutube観てください。
私は工藤静香とか新田恵利とか草間彌生とか岩井志麻子とかのモノマネが好きです。
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