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保育士だけが鬼だった

 今から約35年前、保育園で緘黙を発症した私は、保育士から「喋らなければ倉庫に閉じ込める」と脅された心理的虐待によって、喋ることを強制された。これ以降、家の外では、‟先生”とだけは少しずつ話ができるようになった。
 友達や他の園児と会話をすることはできなかったが、彼らからそのことを責められたりいじめられたりすることはなかった。この時はまだ、「何で喋らないの?」などと聞かれて嫌な思いをした記憶もない。

 当時の男の子は、みんなアンパンマンが好きで、友達同士でよくアンパンマンごっこをしていた。喋らなければ主役級にはなれず、私はジャムおじさんの役をしていた。アンパンマンの新しい顔に見立てた泥団子を綺麗に作ると、その泥団子をアンパンマン役の子に渡していた。するとアンパンマンは、元気100倍になるという設定だったように思う。
 別に私は、アンパンマンになりたかったわけではない。目立ちたいという願望もなかった。喋らないジャムおじさんでよかったのだ。

 保育園の友達は、純粋無垢で、優しかった。友達だけが、喋らない私をありのまま受け入れてくれていたように思う。
 受け入れなかったのは、保育士だった。保育士だけが、鬼だった。

 これは、虐待の前後どちらだったかは覚えていない。
 母の日に渡すプレゼントとして、園児が大きな画用紙に母親の似顔絵をクレヨンで書き、その横に先生が「いつも〇〇してくれてありがとう」などとメッセージを書くということがあった。
 「おいしいごはんをつくってくれてありがとう」
 「こうえんであそんでくれてありがとう」
 「りょこうにつれていってくれてありがとう」
 そんな感謝の言葉を、園児がそれぞれ考えて、先生に口頭で伝えるのだが、私には、それが言えなかった。緘黙なんだから当たり前だ・・・と、今なら言える。当時は、緘黙や発達障害なんて存在しなかったから、ただ大人を困らせるだけの子どもだっただろう。

 私の意思表示は、基本的に首を縦に振る「はい」か、横に振る「いいえ」だけだった。これは、中学卒業までそうだった。
 その時の保育士は、「なんて書くの?」と何度も聞いてきた。だんだんイライラしている雰囲気は、子ども心に感じていたように思う。私は、「ごはんをつくってくれてありがとう」と書いてほしかった。「ごはん?」とでも聞いてくれれば、頷けたのだ。
 だが、その保育士が例に挙げたのが、「掃除?洗濯?」だった。私は、空気を読んだように、そこで「うん」と頷き、「いつもせんたくをしてくれてありがとう」になった。母親への日頃の感謝が洗濯って、どんな小汚い家庭なんだという気がする。今思えば違和感満載のプレゼントが、そうしてできあがった。

 もしもあの頃、保育士に虐待されることなく、適切な専門機関につながり(35年前に緘黙の相談機関があったかどうか分からないが)、少しずつでも話ができるようになっていたら、私はもっと生きやすかったに違いない。
喋れないことに苦しんでいる私に寄り添ってくれる大人は、当時一人としていなかった。
 同じ保育園児の方が、対等に、人として、見てくれていた。
 だが、年齢が上がるにつれて、だんだんと周囲からの風当たりは強くなっていった。

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