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書く才能

大学の留学生の男の子が、少人数授業で泣いてしまった。
夏目漱石『三四郎』の発表を受けてのこと。
泣きながらその子が言っていた言葉がなんだか私が普段考えていることにまさに合致して、もらい泣きしそうになってしまった。
「僕の努力は、彼ら(ここでは天才夏目漱石)の才能を前に消えてしまう」
一言一句同じわけじゃないけど、こんなニュアンスだったと思う。

気がついたら授業後、喋ったこともないのに私はその子に話しかけに行っていた。
私の「天才」への考え方が、その子の気持ちを楽にするとお節介・的外れもいいところながら思ってしまったから。

私は「天才」=突拍子もないことを思いつく、みんなと脳の作りが違う、みたいなふうに考えてはいない。
確かに理系の天才は、天動説から地動説になるように、重力の概念を発見するように、みんなが思いつきもしない発想を要求されることがある。
しかし、文系の天才はどうだろう。
私は真逆だと思っている。つまり、誰もが思いつくこと、誰もが実は感じていること、感じていても感じているということにすら自覚出来ずに無かったことにされる感情たちを彼らは持っている。そして、それらを「言語化する」
相手に、「あの謎の感情」の輪郭を示して気づかせることができる、それが文系の天才だと思う。
そうでないと、多くの人からの共感を呼んだり心の貧困を救うことはできないと思うからだ。
だから私は「自分は凡人で、自分と同じような人間なんて腐るほどいて、、、」と考えている人にこそ、文系の天才になれる可能性があるのではないかと思っている

これは本当に逃げの考えだなと思う。
自分は才能ないし、凡人だし、だから辛いけどしんどいけど、そうやって考えるしかないんだな

この話をした時、留学生の男の子はすごく興味深そうに話を聞きながら頷いてくれた。
「理解してくれてありがとう」というLINEをくれて嬉しかった。

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