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#026 アラブの遊牧民 雑感

歴史的にアラビア半島で最も豊かだったのはイエメンである。豊かなイエメンでは、人口が激増し、その結果、追い出された民が砂漠を放浪し、遊牧民となった。それがベドウィンだ。
イエメン人は今でも非常に誇り高い。内戦で国家運営が難しい状態にあるが、もともと文化力が高く、強大なるが故に、サウジ他の周辺国から警戒されてきたという背景もある。イエメン人と会うと、言外にサウジ人を馬鹿にしている(たかだが100年程度の歴史しかない奴らだ。単に油で豊かになっただけだ)様な印象を受ける。
クルド人も同じ類だろう。12世紀のイスラムの英雄でアイユーブ朝の創始者サラディンもクルド人であった。クルド人国家ができると、強大になってしまうが故に、まとまった国を作らせないという周辺国の策謀ともいえる。現在、クルド人は、トルコ(川口市にいるクルド人は大半がトルコ国籍)、シリア、イラクを中心に分布している。パキスタンも旧インドの回教徒が作った国ぐらいに考えていたが、全くの一知半解。パキスタンには、パターン人(アフガン人)とパンジャービー(旧インド人)他に分かれる。
パターン人は、本来、アフガニスタンとして統一すればいいのだが、ここも英国のお家芸であるDIVIDE&RULEで、ちゃっかり、アフガンとインドの国境を引く際に、インド側にもパターン人がいる様にした訳だ。結果、インド、パキスタンの分離独立時には、パキスタンの国境は、もともとのアフガン国境(デュランドライン)となったため、パキスタンにもパターン人が多数いることになった。文化的にもかなり異なり、食べるものもかなり違う。余談だが(上記も全て余談ではあるが)、ドバイのタクシー運転手の8割以上は、パキスタン人で、その約7割は、パターン人だ。テクニックも巧みで、運転が非常に安定している。インド人の運転手とは明らかに異なる。

標題画像(イエメンからの遊牧民の流れ)は、「砂漠の豹 イブン・サウド」サウジアラビア建国史 ブノアメシャン 河野鶴代・牟田口義郎訳(1962年)P5から引用

<参考>

防衛研究所地域研究部アジア・アフリカ研究室 栗田 真広の論文(2022)から引用。

デュランド・ラインと国境問題 国境問題は、1947 年のパキスタン独立以来、アフガニスタンとパキスタンの間で燻ってきたも のである。今日一般に見られる地図上のアフガニスタン・パキスタン国境は、1893 年に当時の英 領インドとアフガニスタンの境界を定めた、デュランド・ラインと呼ばれる境界線が基になってい る。だが、パキスタンは同ラインを国境だとする一方、歴代のアフガニスタン政権は、一度もこれ を認めていない。旧英領インドの後継としてこの境界線の継承を主張するパキスタンに対し、アフ ガニスタンは、1893 年の合意は脅迫の下で署名されており無効である、同合意は国境を定めるこ とを意図したものではない、アフガニスタンは全てのパシュトゥン人の母国であり、旧英領インド からの印パ独立時には、後のパキスタンに含まれる地域のパシュトゥン人の自決権が無視された、 などと主張してきた。ただ米政府は、このラインが国際的に承認されたアフガニスタンとパキスタンの国境だと明言している。 アフガニスタンの最大民族であるパシュトゥン人の居住地域は、デュランド・ラインを挟んでパ キスタン西部一帯にも拡がる。長らくこの国境線の管理は厳格ではなく、住民らは自由に越境して 生活してきた。パキスタンはこの状態を利用して、9.11 後、アフガニスタンで政権の座を追われ たタリバンの反政府運動を支援し、同国の民主政権の不興を買ったが、後にパキスタン・タリバン 運動(TTP)などの反パキスタンの武装組織がアフガニスタン側からパキスタンへの越境テロを起 こすようになると、両国は互いに、相手国が越境テロを支援していると非難し合うようになった。 これはしばしば、両国軍の間の小競り合いにも発展してきた10。 この国境で、パキスタンがフェンス設置を始めた。開始は 2007 年だが、本格化したのは 2017 年からであり、上部に蛇腹型鉄条網を伴う 3m の金網フェンスが二枚、2m の間隔を空けて設置さ れ、これまで事実上国境を気にすることなく暮らしてきた国境地帯のコミュニティは分断されるこ とになった11。パキスタンは、テロリストの越境や密輸を防ぐことが目的とし、設置は双方の利益 になると主張したが、デュランド・ラインを受け入れていないアフガニスタン政府は猛反発した。 パキスタンはそれでもフェンス設置を進め、2021 年 8 月、タリバンが民主政権を崩壊させる直 前の時点で、国境の 90%で設置を終えていた。 そして 2021 年 8 月、タリバンがアフガニスタンで民主政権を崩壊させ、権力を掌握した。パ キスタンは 2001 年以来、表向きには米国の対テロ戦争に協力するとしながら、政権を追われた タリバンの反乱を支援してきた。その狙いは、親パキスタンの政権をアフガニスタンに打ち立てる ことで、アフガニスタンが、パキスタンと対立するインドに接近するのを防ぐこと、そしてデュラ ンド・ラインの問題を強く主張しないようにすることであった。 だが、再び政権を掌握したタリバンは、歴代アフガニスタン政権と同様、デュランド・ラインを 明確に拒否し、フェンス設置にも反対した。そもそもタリバンは、同様にパキスタンの後押しで権力を奪取した。 1996~2001 年のタリバン政権期にも、同ラインを国境として承認させようとし たパキスタンの試みを拒否しており、その姿勢は一貫している。その後 20 年にわたるタリバン の反政府運動への支援により、パキスタンはさらに「恩を売った」形になってはいるが、これは逆 にタリバンにとって、国境問題という重要イシューでパキスタンに譲歩しないことで、自身がしば しば言われるような「パキスタンの傀儡」でないことを示す誘因を生んだとも考えられる。そし て何より、この問題で譲歩しないタリバンの行動を規定している重要な要素として、パシュトゥン・ ナショナリズムの存在がある。 パシュトゥン・ナショナリズムと国境問題 デュランド・ラインとフェンス設置を拒否するに当たり、タリバンのムジャヒド報道官は、それ らが一つの「ネーション」を分断する、と述べた。スタネクザイ副首相も、デュランド・ライン の問題は、政府ではなく「ネーション」が決定すべきものとしている。 ここでいう「ネーション」は、ラインの両側に居住するパシュトゥン人を指している。パシュト ゥン人はアフガニスタン人口の 4 割超を占める最大民族で、タリバン構成員もほとんどがパシュト ゥン人である。一方、パキスタンではパシュトゥン人は第二位の民族集団ながら、デュランド・ラインを挟んでアフガニスタンに隣接する北西部のハイバル・パフトゥンハ(KP)州を中心に 3,000 万人超の人口を抱え、アフガニスタンのパシュトゥン人の二倍を超える規模に達する。 この構図が、今日に至るまで、パキスタンの不安の種になっている。アフガニスタンでは歴史的 に、隣国パキスタンのパシュトゥン人多数派地域を統合する、「パシュトゥニスタン」構想が燻る 。1970 年代、ダウド政権期のアフガニスタンは、この構想を強く推してパキスタンのパシュト ゥン人の分離運動を支援し、インドの巻き込みも図った。以降はパシュトゥニスタンの実現に向 けた具体的・積極的な動きが見られるわけではないが、近年の民主政権期でも、カルザイ大統領や ドスタム副大統領、その後を継いだサレー副大統領らが、アフニスタンの領土はデュランド・ライ ンをはるかに超えるとの認識を表明したことがある。パキスタンから見れば、これは国土の約半 分を失いかねない構想である。 それゆえ、パキスタンにとって、アフガニスタンがパシュトゥン・ナショナリズムを煽り、パキ スタン側のパシュトゥン人がこれに共鳴して分離を志向する事態は、何としても避けたい。1970 年代を最後に、パキスタンのパシュトゥン分離主義運動は大きな勢力になってはいないが、KP 州、 特にアフガニスタンに隣接する旧部族地域のパシュトゥン人が置かれた社会経済状況は望ましい ものではなく、連邦政府への反感は強い。だからこそ、パキスタンはアフガニスタンでタリバンを 支援してきた。タリバンは、民族的にはパシュトゥンながら、イスラム主義組織であるため、パシ ュトゥン・ナショナリストのようにパシュトゥニスタン構想や国境問題を強く推したりはしないと パキスタンは期待したのである。 しかし結局タリバンは、パシュトゥン人を分断するものだとして、デュランド・ラインを拒否し た。タリバン自身にいかなる意向があるかにかかわらず、アフガニスタン国家を統治していく上で、 最大の民族集団であるパシュトゥン人の支持獲得は重要であり、この観点で、パシュトゥン人を分 断する同ラインを受け入れることは困難と言える。タリバンがパキスタンの設置したフェンスを破 壊する動画は SNS 上で拡散され、アフガニスタン国内では広く歓迎されたという。タリバンに 放逐される直前、民主政権のガニ大統領がタリバンに求めた、「真のアフガニスタン人なら、デュ ランド・ラインを受け入れるな」との要求は、民主政権への配慮からではないにせよ、守られる 形になった。 アフガニスタン・パキスタン関係の行方 タリバンは、デュランド・ラインを承認はしないものの、その書き換えを積極的に追求している わけではない。

202202.pdf (mod.go.jp)


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