熊との遭遇
林業で毎日山に入ること、間もなく2年。昨年の暮れ頃、ついにというかようやくと言うべきか、ツキノワグマを目撃した。
クマの存在に気が付いたとき、私との距離感は10メートルほど。私もクマも単独行動だった。冬眠の準備か、餌を探しながら獣道をこちらへ向かってくる。肩を揺らし揺らし歩く様は威風堂々。艶々しく黒光る毛並みにはいよいよ山の王者の風格が漂う。
幸い、餌探しに夢中で終始うつむいていたので、私には気が付いていないようだった。あるいは鋭い嗅覚で人間の匂いを嗅ぎ取っていたのかもしれないが、顔を起こすことはなく、近距離で鉢合わせという悪い事態にはならなかった。
大急ぎで退避
私はといえば悪い事に、咄嗟に背中を向けて退避のポーズを取ってしまった。それでも「慌てて逃亡はむしろ危険」とのぼんやりした教えを思い出し、クマに向き直るとゆっくり後ずさる。斜面の起伏で姿が見えない位置まで下がったところで、ダッシュで逃げた。
場所は、両神山登山口に当たる両神山荘から、登山道とは別の方向へ数百メートル。お昼少し前のことだった。
ほとぼりが冷めたからこうして冷静に振り返ることができるのだが、見た当時の肝の冷やしぶり、冷や汗のかきっぷりといったらない。日頃から山では、何かユニークな物があれば記録に残そうと心掛けているのだが、この時ばかりはスマホのカメラを取り出そうなどという余裕は微塵もなかった。
結果的に何もなかったから良かったが、遭遇それ自体は私の準備不足が引き起こしたものと言えそうだ。
鈴持つべし
当時していた仕事は間伐前の選木といって、林内のどの木を間伐するか―全体のうち育ちの悪い2割を伐るもの―選び出し、印をつける作業だった。つまり、林内にはチェンソーのエンジン音が響かない。静寂。むろん作業者の息づかいや土を踏みしめる音はあるが、そんなのは山の広大さと比較すれば無に等しい。
そんな中、ああ何ということだ、私は鈴を持たずに作業をしていた。それでクマは、人間の存在を察知できずに接近したのかもしれない。何しろクマだって人間には出会いたくないはずだろう。
異様な黒さ
日が経っても目に焼き付いているのは、あの体躯の黒々しさだ。こんなことを言うと意外と思われるかもしれないが、山に黒い色って実はあまりない。だからツキノワグマのあの黒さが浮き彫りになる。山にある黒い色はせいぜい、落ちて炭のようになった朽木くらいの物で、あとは岩陰とか洞穴とか、周辺環境が作り出す上辺だけの黒だ。出会って最初ぎょっとしたのはおそらく、山で見慣れない黒色、それも黒光りした塊が突如目に飛び込んできたからだと思う。
熊の色ついでに言うと、みんな大好きテディベアのルーツは
だそうなのだが、上記サイトトップにちょこんとまします愛くるしいクマは茶色。プーさんに至っては黄色。北海道に生息するヒグマは確かにイメージ通りというか、茶色なのだが、ツキノワグマは真っ黒なのだと本州、四国の人々に声を大にして言いたい。
目撃談多数
クマに遭遇したことを興奮気味に先輩に話すと、案外どうってことのないみたいな反応が返ってきたりもする。それもそのはずで、彼らは長年クマの生息フィールドに入り仕事をしてきたのだから、遭遇は珍しいことではないのだという。
ある先輩は初遭遇の際にびっくりしてカメラを出せなかったことを悔しく思い、2回目の時には木の影に身を潜めしっかり動画に収めた。またある先輩は、3人でチェンソー作業の休憩中に出くわし、慌ててエンジン音で威嚇しようとスターターロープを引っ張ったが、3人が3人ともスイッチオンをし忘れ、窮地の中ロープを引っ張り続け「かからないかからない!」とやっていたらしい。
鈴の後日談
エンカウントの翌日、クマ鈴必携と心に決め、チリンチリンとやりながら選木に励んでいた。しかししばらくしてふと気がつく。腰袋に付けて意気揚々と鳴っていたはずの鈴がない。山での落とし物は砂浜でゴマ粒を見つけるようなもの。昼休みにはしょぼくれてもいた。それが夕方、山を降りる帰り道、たまたま選んだ林内のルート上にマイ鈴が落ちているではないか。えへ。何かこう、山の神の神性を感じました。
遭遇してしまったらどうすればいいか
遭遇しないのが一番だが、昨今全国的に目撃や被害が増加しており、出会うときは出会ってしまう存在といえる。環境省などが公表している資料をおしまいに載せておく。
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