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【転機編】Chiroとセパタクロー②




intro


本日も悩める20歳の話をどうか聞いてください




たびたび私の投稿では 

正しく存在する矛盾した二つのこと

について話してきました。



例えば

自分の考えに偏りは持ちたくないけど、
確固たる信念は持ちたいナ

みたいな。



本introでは、

強さが抱える矛盾


について少しお話をさせてください。




皆さんは、偉くなりたいですか?


とか、有名になりたいですか?



chiroは多分、なりたくないと思っています。

権力の強さを欲したくないと、わがままなことを言いたいです。


HIKAKINは、問題を起こせないからと、滅多に家を出ない生活をしていたり、

プライベートもないセレブたちを羨ましいと思えません。



力を持つと、人への影響力が必然と強まっていってしまいます。

関わる人が増えると、自分のものさじで物事を決められなくなっていきます。



そういう縛りから抜け出したい人が多いから、きっとアウトドアが流行るし


自然と生きている人に憧れをいだきます。


だから私もそっちの人生を歩みたい。



でも、多分どこかで

褒めてもらいたいとか、そこそこの給料は欲しいとか、

そんなことを思っている自分もいます。




難しいなぁ


みんなほどほどを多分欲しているけど、

その時になったら、そのほどほどというのは遠く過ぎ去っているんだろうなぁ。




以上悩める20歳でした。

本編へどうぞ。







セパタクローという沼にハマった14歳の私



出会い編を見ると、より楽しくお読みいただけます


さて前回は、セパタクローのボールを買ったシーンで終わりましたね。


当時の私は、鹿児島県は肝付町というクソ田舎に住んでいましたので

何もかもから、遮断された場所で生きていました。



セパタクローのボールを買ったはいいものの、

蹴る相手もいなければ、教えてくれる人もいない。。。



それでも、小さい頃からサッカーをやっていましたので、

ボールコントロールはある程度、体に染み付いております。



週末の休みには、体育館で一人リフティングをしたり

YouTubeでセパタクローの動画を見て、想像を膨らましていました。



どうして私に火がついのか、昔のことで覚えていませんが

でも、「もっとセパしたいぞ!」

と思ったのでしょう。



近くでセパタクローができる場所を母親が探してくれました。

そこで見つかったのが、2つ。

一つは、宮崎県南部は都城市で活動していたセパタクロークラブ。

60キロ先でしたので通える距離ではなく断念。


もう一つが、鹿屋体育大学セパタクロー部。

隣の市の鹿屋市に構えた体育大学で、なんとそこにセパタクロー部があるとのこと

2度ほどいきましたが、こちらも山を二つほど越えなくてはならず、現実的ではいないと。



ここまでくると、だんだん燃えてくるもんなんです。

私のセパタクロー熱は、間違いなく大きくなり、


そして、「日本代表になりたい」といういきなりの大きな夢を持ちます。


その熱を両親も感じ取っていたのか、

3人で話し合いをしました。


今後どうしていくのか。ということについて



本当にセパタクローをしたい→のなら関東の方がいい。



このシンプルな方程式を全員で確認したのちに、
鹿児島から埼玉に戻ることを決めました。


それが中学2年生の夏頃。


大きな決断だったと振り返り思います。

中学受験をして中高一貫校に進み、それを自主退学する。

なかなか大変なことです。


中学2年生の2学期をもって、さいたまの公立中学校に転校をし
本格的に埼玉でセパタクローに打ち込むことになります。





埼玉に戻った私は、セパタクロー日本代表監督と
マンツーマンのトレーニングをスタート。


私の恩師とも言えるコーチについてご紹介します。




〈次回〉耐え忍ぶ中学時代


お楽しみに。



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