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ものぐさ生活史 2024年1月8日〜9日

1月8日

最近ちょっと読みかじったものを紹介。
『星の王子さま』を書いた有名な作家サン=テグジュペリの言葉に「交換」というものがある。これは、人間は何かの仕事に打ち込んで、自分のすべてをそれに捧げることで、自分の命とそれを交換するという思想らしい。
交換の思想のもとで生きた人について、サン=テグジュペリはこう思ってた。

その人間が死ぬ時、その両手は星で一杯なのだ

サン=テグジュペリ

詩的でいいな。星いっぱいで死ぬ人生を自分も歩んでみたい。

我を失うほどに没頭して何かをすることが人間の幸福の一つであることは、仏教でも言われてた。うじうじ考えないことが幸せへの道であり、行動そのものが目的で、それに付随する名誉だとか周囲からの評価などは取るに足りないものとする。
行動そのものが目的になっているような人物、つまり芸術家ということだが、このタイプの人間は憧れてなれるような人種ではないんじゃないかな。
芸術家に憧れる人は、「芸術家的な人」になるだけで、「芸術家」にはなれない。これは運命論じゃなくて気質論。芸術家にならなければ、人生が虚しく終わり、星を手に取ることができないわけではない。

当たり前のことだけど、その人の気質にあった幸福というものがある。
命と交換ができるほどの何かに出会うことができた人は確かに幸福だとおもう。だけど、それと出会えなかった人が不幸なわけじゃない。生き方に価値を求めたり、比べたりするのは昔から好きじゃない。

虚しい人生も立派な旅

田村隆一

詩人の田村隆一が言ってたこの言葉を思い出す。
星を一杯持たなくても星を見上げる人生も悪くない。


1月9日

ニーチェの詩を読んだ。

十年が流れた
一滴の水も私には届かなかった

どんな湿った風も、
どんな愛の露も
雨のない大地は
わが山々から遠ざかることによって

今日、私はそれらのものを引き寄せる、
それらのものがきてくれるように
お前の乳房で私のまわりに闇をつくっておくれ

天の高みの雌牛よ
私はお前の乳を搾りたいのだ。
乳のように熱い叡智よ、
愛のやさしい露よ
私はお前をこの国の上になみなみとそそごう

エロい。
まぁ、ニーチェはモテなかったし、恋に敗れて発狂する人だったから仕方ないとも思う。
『ツァラトゥストラ』も詩的表現が多いし、ニーチェの本領は哲学と詩の中間にあるのかもしれないな。

この詩のメタファーとリズムを覚えておきたい。乳という語の強さ。雌牛という語の実体を想像させる力。

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