【小説】それゆけ!山川製作所 (#17 社内行事③)

1時間30分を前にして、ついに最初の脱落者が出てしまった。

力なく車から出てきた健一は、目をつむり天を仰いでいる。
その顔は競技開始前と比べてどこか老けているように見えた。

「やはり己の欲望には逆らえなかったようだな……。しかし、この若さでここまでの戦いを見せてくれた。間違いなく、今後に期待が持てる選手だろう」

黒川専務の解説を機に、会場では盛大な拍手が巻き起こる。
健一は本来の実力を発揮できなかったが、この大会の難しさは誰もが理解している。
たとえ最初の脱落者であろうと、ここに彼の健闘を馬鹿にするような者はいない。

健一は最後にソールを「カッ」と鳴らすと、重い脚を引きずり、退場ゲートをくぐっていく。
歩く彼の背中には、誰から見てもわかるほどの疲労感がにじみ出ていた。
しかし、その裏で彼が悔し涙に顔を濡らしていることには、誰も気づかなかっただろう。

厳しい予選を通過した強者であっても、一瞬の油断が命取りとなり、あっけなく散っていく。

これが、エンジンストップという競技なのだ。


「さぁ!ここからは田中選手と大星選手の一騎打ち!どのような戦いが繰り広げられるのか!!」

仕切り直したユキの言葉に、観客(社員)たちは再びスクリーンへと目を向ける。
些細なきっかけで大きく動くこの競技。
会場内の誰もが、2人の熱き戦いを固唾を飲んで見守り続ける。




2時間が経過する。
この時点では、まだ2人に変化は見られない。

毎年の流れでは、2時間30分あたりで参加者全員に何らかの変化が出始める。

まもなく試合が動くと誰もが予想していた。
この競技の真骨頂は、言うことを聞かなくなった体をいかに制御するのかということ。
つまり、参加者たちの体に変化が起こり始めてからが本番とも言えるのだ。
その山場を、観客(社員)たちは湧き上がる興奮を押さえつけ、静かに待っている。

「もうすぐだ」「ついに始まる」。
そんな静かなる期待感に、会場の空気はより濃密となっていく。

しかし、今大会は観客(社員)たちの予想を大きく裏切る形となった。




……会場がざわめき出している。
時計の示すタイムは現在2時間55分。

年によってはすでに優勝者が決定していてもおかしくない時間帯。

にもかかわらず。
田中も飛雄馬も依然として膠着したまま。

田中は相変わらず腕を組んで目をつむり、飛雄馬は開始時同様に目を見開いたまま一点を見つめている。
この時間帯になっても自身を完全にコントロールしている者など、過去見たことがない。

しかも、それが同時に2人もいるのである。
間違いなく、今大会は異次元の域に達し始めていた。

「こ、これは信じられません……。3時間を前にして、2人には一切の揺らぎが出ておりません……!」

実況のユキが声を震わせている。
それもそのはず。

黒川専務が初回大会で叩き出した記録が3時間20分。
これは大会記録であり、今までその記録を破ることができた者はいない。
その高い壁が、まさかの2人同時更新という形で越えられる可能性が出てきているのだ。

「あ、ありえないお……。私ですら3時間を目前に体の震えが止まらなくなっていたんだお!2人にはいまだに精神的な揺らぎが感じられないんだお!」

「ちょ、落ち着いて!あんた全開になっちゃってる!」

ここまで微動だにしない2人を見て、さすがの黒川専務も動揺している。
ついでに、全開の黒川専務に莉子も動揺している。

「さ、さぁ!黒川専務越えも目前に迫っております!果たして記録を塗り替えることはできるのか!そしてどこまで記録は伸びるのでしょうか!」

ユキの煽りに社員たちの心は熱くなっていくが、対照的に会場はより一層の静寂に包まれつつあった。
その張り詰めた空気に、もはや息苦しささえ感じる。
それでも、参加者の2人は観客(社員)などそっちのけで、己と向き合い続ける。

歴史の動く瞬間は目前に迫っていた。



そしてついに……。



「なんとここで大会記録が塗り替えられました!しかも2人同時での更新です!誰がこのような展開を予想できたでしょうか!」

ついに黒川専務の持つ大会記録を超えた。
ユキはあふれる感情が押さえきれず、心を最上級に高ぶらせ叫ぶ。
同時に、今まで静寂を保っていた観客(社員)たちからも爆発的な歓声が上がる。

「私の時代もここまでのようだな」

盛り上がりを見せる会場とは違い、黒川専務は落ち着いた、そしてどこか清々しいような表情を見せる。

まだ競技が終わったわけでもないのに、世紀の瞬間に会場はもはやお祭り騒ぎだ。


しかし、記録更新と同時にある選手に変化が起こる。


「ツーー……」

「!!!」


突然のことに会場中がどよめく。
なんと開始以来一点を見つめ微動だにしなかった飛雄馬の目から血涙が流れたのだ。

「……なんと!大星選手の目から血の涙が流れています!こ、これはどういうことなのでしょうか!?」

「ふむ……。あらゆる感情を抑え込んできた精神がここで持たなくなってきたのだろう。それでも心を鎮めるべく己を律し続けた結果、体は血涙という危険信号を出している」

「いや、あの人始まってからずっとまばたきしていないんで、そのせいじゃないですかね……」

 黒川専務と莉子がそれぞれの持論を展開する間も、飛雄馬の体には変化が起き続けていた。

「ツーー……」

今度は口から血が伝い始めた。
同時に身体中が小刻みに震え始める。
大会記録を更新しているものの、田中はまだ目をつむり腕を組んでの余裕を見せている。
飛雄馬はこのまま崩れていくわけにはいかなかった。
必死に抑え込もうとする様子が、会場中のスクリーンに流れる。

やはり、いくら足を鍛えようと、心まで鍛えることはできない。
それでも食らいつく飛雄馬の姿に、会場中の観客(社員)たちは心を打たれた。


競技時間4時間を超えた頃、なぜエンジンストップが継続できているのか理解できないほど、飛雄馬の体はガタガタと震えていた。
表情こそ開始以来一点を見つめる姿勢を保っているが、限界が近いことは誰の目から見ても明らかだ。

その異常なまでの執念をみて黒川専務が気づく。

「ま、まさか……。彼はこの大会、命をかけているのか!?ここで死んでも構わないと……!くっ!レフリー!すぐにドクターストップをかけろ!彼は記録と引き換えに命を差し出すつもりだ!」

慌てた様子の黒川専務の指示に、急いでレフリーが飛雄馬の車に駆け寄る。
その時であった。



「プーーーー!ドゥルン!ドドドドドドド」



スクリーンには彼がハンドルに突っ伏し気絶をしている姿が写っていた。
顔面で押しっぱなしになってしまったクラクションが会場に響き渡る。

ついに飛雄馬が脱落してしまったのであった。

飛雄馬はすぐに車から担ぎ出され、担架で運ばれていく。
執念を見せた男の両目はカッと開いたままであった。

「大星ー!ナイスファイトー!」
「感動をありがとう!」
「お前は真の男だー!」

飛雄馬の奮闘に会場中からは次々と健闘を称える声が上がり、中には涙している者も少なくはなかった。

「ぐす……。なんという執念!なんという覚悟!まさに男の中の男です!皆様!大星選手の健闘を讃え、大きな拍手を!」

「ふむ。引退した身だが、ここまで見せられると血が滾ってきてしまうな」

「大星先輩。目、真っ赤ですね……」


熱き男の戦いに、会場は今日一番の盛り上がりを見せた。



3時間25分。
神奈川支社営業部営業一課所属。『鉄人』。
大星飛雄馬(オオホシ ヒュウマ)。


脱落。



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