亀とカブトムシ


                                                 

だいぶ以前のことになってしまうが、かつて私が子供たちと暮らして居た頃のこと。我が家では猫を飼うかどうかの議論になったことがあった。とどのつまり飼わないという結論に行き着いたのだが、その代わり、カブトムシを飼育した。つがいのカブトムシで、近所の大型スーパーマーケットでいくらか安値で売られていたものだ。
カブトムシを飼育してしまえば猫は飼えなくなる。それでもカブトムシを飼うか、という問いかけに対して、子供たちはひたすら飼いたい、たとえ猫でなくとも、そう繰り返した。私はどうにも熱意に負けて、妻を説得して購入して持ち帰ったのだが、子供たちの発生の根拠すらわからない熱意というものが、我々夫婦を熱烈に刺激したのはよく記憶している。
私はネットワーク検索で調べた付け焼刃の知識で様々なことを準備して、それを子供たちに垂れ流した。子供たちは目を輝かせてその端々の直立的難解さを気にも留めず、ただの動作として咀嚼して、飼い始めたその日からつがいの世話を始めた。
すぐに飽きるのではないか、危惧していた我々の心配などまま杞憂であったかのように、カブトムシに熱中する二人の兄弟は、つがいの雄にオッス、雌にメッスと名付けた。これはなにも二人が名付けに興味がなかったわけでもなく、むしろ名前に関して熱烈な好奇心があって、喧嘩を始めてーーそれも一方的なーーしまったためだ。このふざけた名前はそうだから、実は私がつけたような気がしなくもない。
二人は土の交換から何から、兄のミチヒロをリーダーに積極的に行った。土を小まめに変えて、餌の蜜はきちんと自分たちのお小遣いから自主的に買いに行っていた。すくすくと大きく、生命を更新するその生き物に、彼ら二人の兄弟の子供としてあるべき純粋でひたむきな様子は、我々夫婦に、ひと時ならず将来への安堵を深く根差させるに至るのだった。
野球をして、サッカーをして、学校に行って、ごはんを食べて、ゲームをして、学校で、兄弟で喧嘩をする。家に帰れば面倒を見て、ただ徒然な生活であったはずの兄弟。私は詳しいつもりだが、それでもきっと幾つか見落としてしまっている気がしなくもない。どうにも、自然法則から外れた不自然な終わりを、どうしてか迎えるに至ったからだ。
突然、弟が「亀を飼いたい」そう言い始めた。
「だって、もうすぐカブトムシは死んでしまうから、なにか代わりになるものが欲しい」
弟のその言葉に、私は危機感を持ったが、それでもきちんとカブトムシを飼育していたし、駄目、とも言えず了承した。カメは長寿だし、兄弟がいつでも仲良くし続ける象徴であればと、今度は兄弟のミドリガメを買ってきた。名前は太郎と亀次になった。珍しくお互いで違う名前を付けるのだな、そう印象を持ったことは良く記憶している。
やがて、二匹のつがいはその生命を終えた。つがいからは十二匹の幼虫が産まれた。
兄は、最初こそ幼虫に名前を付けたが、結局見分けもつかない存在であることと、正直土の中で良く識別もできず、どうにもならなかった。だが、どういう訳だか数が少しずつ足りなくなっていくことが認識できて、その理由こそ少なくとも大人には自明であったが、それを子供たちに説明するには躊躇われた。しかし結局は、共食いをしている事実を告げるに至った。兄弟は深く衝撃を受けたが、兄には辛かったようだ。弟の方は「代わり」を見出していたし、衝撃という訳ではどうやら、無いようだった。
それを見取ったのは兄のミチヒロだった。弟の認識や態度が気に入らず、亀の世話を一手にするようになった。しかし、なんだか亀を受け入れることができていないのか、亀にきちんと餌を与えなかった。
ミチヒロはカブトムシ用の蜜を亀の背中にかけて餌としたり、水槽を外へ持ち出して弟の手から遠ざけた。家でも弟が居れば振り回してでも薄汚れた兄弟の小さいミドリガメの入った水槽を手から離さず、ちゃぷちゃぷいう水そっちのけで座標を保たぬ亀を気にするに至らなかった。妻も私も、どうにもその残虐性は視界に入っていたが、どうするべきとも相談もつかず、あるがままでこそないにせよ、明確な注意や没収には至らなかった。
私は、タカヒロを近くの寺へと連れて行った。
境内をぐるっと一周して、馴染みのもう若くもない住職に鐘を撞かせてもらえないか、そう相談する。住職はうんともすんとも言わず、先を行くと鐘に私たちを先導する。住職は静かに口を開く。
「寺では毎日、煩悩の数だけ鐘を撞きます。しかしながら、もし住職で無いものが鐘を撞く時、撞いたものの煩悩を浄化するためのものになるので、撞く数はその日、その人数だけ減らします」
ミチヒロは槌を一生懸命に支えて持つと、よろよろしながらも、懸命に撞く。二度撞いて、二度めが特に上手で私は安堵するが、やはりどちらもきちんとは撞けず、ああそうだったのか、とミチヒロの為に来た気になっていた私は、鐘の音に真実を告げられる。
まだ年端のいかぬ子供に、猫やカブトムシや亀や、何を飼う能力があるかないか、そう判断していた時点で、私は未熟だったのかもしれない。人にできぬことを任すのは確かに良くもないことかもしれない。だが、導いたり教訓を与えるのは、必ずしも自分自身である必要はないのだ。この鐘は、我々夫婦のものだ。そしてそれは二人の兄弟と二匹の亀、そしてつがいのために鳴り響いてやがて意味を持つのだ。
帰りにレディーボーゲンの高級アイスをミチヒロと私の為だけに買って、口にする。溶けて滑らかになり、甘い刺激が舌と口内を満たし、もう一掬いずつ、私に次の楽しみと享楽を期待させる。新作の出るたびに好き好んで購入しては、いつだって子供たちに平等であろうとした私は、同じようにアイスの感慨をあるべき彼の為のみに感じるミチヒロを、ただただ愛しく、そして好ましく認めるのだった。
つがいから生まれたカブトムシはまだ、幼虫のままだ。                                     
                                     了

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