見出し画像

般若心経という乗り物

般若心経は乗り物だな、と思います。


夕方、業務の終わりぎわに般若心経を和尚さんと唱えます。
聞くところによれば、木魚の叩き方も節の付け方も、お寺によって少しずつ違うみたいです。

教わった通りに唱えるお経。ものすごい情報量が込められていますが、その意味を意識することはほぼありません。読み上げる音がどんな漢字だったか、思い出そうとしようものなら、リズムが崩れてお経と言える代物ではなくなります。

とはいえ読経の時以外にお経を読み込もうとするのはすごく負担感が強い。
結局のところ何を言わんとしているのか?知りたいけど読むにはハードルが高い。唱えることはできても、味わうように読み上げることは意外と難しい。

車を運転している方はお分かりでしょうが、運転は言葉で動き方を考えようとするとものすごく危険です。3台先の車が黄色信号を通り過ぎたから自分は車間を詰めればまだ間に合うかないや、、と考えていたら確実に追突します。
思考が行動に追いつかない。これはお経でも言えることかもしれません。

なるほど、お経を読むことはお経に「乗り込む」ような感覚がちょうどいいのかもしれません。

般若心経をラップにした動画が一時期流行りました。
そこまでノらせる必要はない(もちろん世代開拓という意味では素晴らしいことです)と思いつつ、、、
般若心経はいわば過去の人々が唱えてきた、そしてこれからの人も唱えていく、いろんな思いを引き受ける乗り物でもあるのでしょう。


今まさにどこかで、数多のお経が唱えられています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?