生まれた瞬間から自給自足
私は少々面倒くさい20歳である。
それには私のルーツが深く絡んでいる。
生まれてから8年間、ポツンと一軒家ばりの山奥で家族と自給自足をしながら育った。お隣さんは2軒、あとは家の前の谷を挟んだ向こう側に小さく小さく民家が見える。
上京して出会った父と母の間に生まれた姉は喘息持ちだった。美味しい空気と水と自分たちの手で作った安心な食べ物で育てたいという両親の思いから、私が生まれる直前に、父の実家がある愛媛にUターンして山暮らしを始めた。
私は冬の寒い日に隙間風がたくさん入る古民家で、自宅出産で生まれた。なんせ山奥だったから産婆さんが間に合わず、母と父は本当に自力で私を取り上げてくれた。
母は西洋医学より東洋医学に興味があり、私たちが小さい頃から口に入るもの全てに気を遣ってくれ、できるだけ手作りのものを食べさせてくれた。
父は仕事として炭焼きや林業をする傍ら、自然農の稲作をしながら少しの野菜を育てていた。
生まれた瞬間から大自然の中で育った私にとって、自然とは家であり遊び場であり生活の一部だった。
水は裏山から引いてくる。冬には水道管が凍り、よく父と一緒に山奥まで管をたどった。小さな私にとっては大冒険だ。
毎日家の裏山に行っては、姉と妹と篠竹の林を踏み倒して秘密基地を作ったり、木のウロの中に入ってかくれんぼをしたり、畑や田んぼの脇の川に入り、カニを捕まえたりしていた。
夏の夜には、父に軽トラの荷台に乗せられてホタルを見に行き、手のひらで光る小さな命に驚いた。
冬になれば、姉妹で家の脇の坂道に行く。最初は小さな雪の玉を転がして、だんだんと転がるうちに触らなくても勝手に大きくなり、土の混じったおおよそ綺麗とは言えない雪だるまができる。
犬と一緒にタヌキを追いかけて細い排水路のグレーチングの下に潜り込んで出れなくなったり、家の本棚の裏でネズミがヘビに飲み込まれる瞬間を見つけて妹を泣かせた。
鶏と烏骨鶏の卵を籠に集めるのが毎日の朝の日課で、雄鶏に襲われるのが小さかった私にとってはいつも怖かった。
ヒヨコが小さなうちは家の中で30匹くらい離して一緒に遊んでいた。ソファーから滑り落ちた瞬間に1匹踏んでしまって、その子は生きてたけど、大きくなっても足を引き摺っていた。
薄暗くなる頃、姉と一緒に薪風呂の火をおこして、空中に火花で絵を描いて遊んでいた。
暗闇に一瞬残るオレンジ色の火花、あの明るさを見る度に心踊った。
毎年春になるとみんなで田植えをする。
うちの田んぼは、周りの田んぼと違って
機械でかき混ぜないから草の根や石ころが混ざってる。あの足の裏の感触を今でも覚えている。無農薬の田んぼには生き物がたくさんいた。赤とんぼやオケラやイモリ、小さな命で溢れていた。
秋になると稲刈りをする。自分より背の高い稲穂を前に、鎌を持って適当に進んでいって私だけの道を作るのが楽しかった。
妹の"穗波"という名前は、うちの田んぼの不揃いな丈の稲穂が波のように風に吹かれている様子から、母がつけた名前。
いつも家族一緒だった。母と父とも寂しい思いすることがないほど一緒に過ごせた。気がする。
断片的な記憶しかないけど、あれが私の毎日の全てだった。本当に自然に育てられてきた。境界なんてきっと無く、私は自然の一部だった。
山での暮らしが好きだった。
そして、無条件に幸せだった。
続く…