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幸せになる残酷さ

私含めてなんですが、人間ってとことん残酷な生き物何じゃないかと思う。
仲の良かった人達もなんらか問題を起こした人に対してあっという間に他人以下、ゴミのような扱いをし始めるし、またその傍観者たちもその一部を見てこの人はダメな人なんだとレッテル貼りをするわけで、人間社会は太古の昔から変わっていないんじゃないか。

本能によるものの判断なんだから仕方がないとはいえ、私はある意味社会から爪弾きにされたと言える。
なるほど、社会的弱者にはこういう仕打ちが待っている訳だ。

と、今日は人間の幸せと残酷さについて考えていた。
それと言うものの、最近漫画の『シグルイ』やら『ヒストリエ』やら見ていたもので、封建社会やら奴隷制度やらがいかにクソだったのかとか、それに抗う事も出来ない人間の愚かさというか歯がゆさだったりをずっと考えていた。
なぜ人は残酷に出来ているのか。
というより残酷に見える生き方をしているのか。
なぜなら奴隷制度がある時代において奴隷とは普遍的な当然の存在で、また封建社会における君主による統治というより支配も、当時はなんら残酷ではなかったからだ。
現代だからこそ当時の人間社会を残酷だと認識する事が出来る。
また、私自身こういった身の上になるまで自分の幸せを追い求める過程で他者を虐げている事に気が付かなかった。

私が思うに、残酷に見える原因は社会全体が作り出す個人の幸せの理想像が他者を虐げているんからじゃないかと思う。

私たち人間にはそれぞれ理想の幸せの形があって、その幸せを実現するために無意識にでも意識的にでもそれを追い求めていると思う。
そしてその幸せの理想像は誰が作っているのか?それは自然に発生するものではなく、既に作り出された理想像を勝手に自身の理想にすり替えている様な気がしてならない。そしてそれを作り出すのは社会そのものだ。

奴隷制度がある時代なら他所の国で捕虜として連れてきた人間を奴隷にするのが生活の一部であり、幸せの一部だ。
奴隷がいる事がステータスでもあり、生活の基盤でもあった。
そして奴隷自身もそのあり方を望まざるを得ない。
奴隷でいる事で一応の安寧と生活を補償されるのだ。

また筆者は無知ゆえ知らなかったが、現在でも奴隷のような身分の方達は存在は5千万人ほどいるらしく、現代風に言うと強制労働や移民労働者などがそれに当てはまる、という事だ。

なんだ、現代も当たり前に残酷なシステムで人間は生活しているじゃないか。
私が知らなかっただけでこうも人は社会と自分の生活を守るために残酷になれるんだ。
現代では君主が作り出すものではなく社会全体が無意識に弱者を踏み台にし、社会が作り出した幸せを作ろうとしている。

これが残酷さの真実何じゃないか、と思う。
私自身自分の理想やら幸せやらの為に人を利用していたし、またそれを良しとしていた。
というか現在進行形で他者を利用している。
モテるなんてその最たる例である。
それも恐らくは他者や社会が作り出した理想像を持ってして他人を蹴落としていたのだから、それは救いようがない気がする。
別にそれが悪いという訳では無いとも思う。
生きるとは弱者を抹殺することに等しい。
しかし前述にもある通り、この時その瞬間はそれが正しい事の方が多いのだ。
大多数が支持しているという盾でその弱者を痛め付けることが出来るだろう。
その立場が崩れない内は。

私も傍観者だ。
そのうち私にもなんらか別の形でまた制裁が下るんじゃないかと思う。
『虐殺器官』の映画の方にもある通り、私たちは真実に覆いを作る。(小説の方はこの文言は無かった気がする)
理想を守るために、社会を守るために。


と、今回は誰も幸せにならない事を考えていました。
私も別に何処か知らない場所の人の事については目を向けてないというか、単純にそんな所見ている余裕が無いですし、基本私も私の周りの人間だけしか目が向かないですしね。

私がなぜ爪弾きにされたかについてですが、この幸せを守るだとかの部分も大きく関係しているんだと思うんですよね。
つまり私は私の幸せを追求するために。
その人はその人の幸せを守るために。
社会的立場を失わないという幸せの為に私はある意味抹殺されたんじゃないかなと思います。
結果的に私は社会的信用を失ったに等しい訳です。
自業自得ですが、諸行無常ですね。


この記事を見た事でじゃあ私はどうすればいいんだ!みたいに思う方もいるかもしれませんが、別に変わる必要は無いと思います。
ただ今の幸せってどこから来てるのかとか、自分の理想って本当に自分の物なのかとか、一考するきっかけになればいいかもしれません。

割と当たり前みたいな考えかもしれませんが、書いているうちに深い所まで落とし込めないかなーと思い今回幸せって残酷さと隣り合わせだよねって事を書いてみました。
多分哲学書とか読んでたらこの手の事は書かれているんでしょうけどね。

ただ哲学書は読んでいませんが、冒頭に上げた作品の『シグルイ』の原作『駿河城御前試合』の著者南條範夫氏は「人間の感情が極端に走るところに残酷が生まれる」
と綴っています。
なるほど、たしかにそうかも知れない。

集団での残酷さの露出は弱者に対して起こるけど、個人レベルでの残酷さはシステムと感情の起伏によって生じるんだろうな。

私という人間に対して残酷さを持って排除し、幸せを守ろうとした人達は戦に勝利して平和を保ったみたいな解釈でしょうか。

そう考えると納得がいく。
一度奴隷になった者が果たして今まで通り接することが出来るだろうか?『ヒストリエ』を見ていたら答えは言うまでもなく、出来ないんだろうな。


正直言ってこんな問答には意味が無いなと連日書いていて思った。
悲観的な方向に考えがちだな私は。
最近暗い作品とか天気悪い日ばかりだったからか、ナイーブになっていて精神的によろしくない。

最近は特に仕事関係で悩む事も無くなった?かと思ったが、どうも好きだった同僚が喋ってると恐怖なのかよく分からないけど動悸が激しくなる感覚があって、帰りたくなる。(帰ってるけど)

こういうのってどうにもならないよね。多分。
前なら行動して何とかしようとしていたけど、それで上手くいかなかったからこうなった訳で、とか色々考えてとりあえず深呼吸して仕事している。

彼女の動機について考えていたら私ってただの邪魔者でしかないって事を回りくどく文章化しただけなんですけど、割と合ってると思う。


結論、とりあえず好かれたいなら固執しないようにしましょうね。モテないから。
あと気にしすぎも良くないよ!

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