油断できない日常
『ぼっちな食卓-限界家族と「個」の風景』(岩村 暢子 著)という本を読んでいる。
この本では二十年に及ぶ複数の一般家庭の食卓の定点調査から得られたデータとそれを踏まえた現代の食卓、ひいては家族の在り方についての考察が書かれている。
(かなりのボリュームがあるので、きちんと読み切れているか自信がないのだが、)全体的にここ数十年で個人を優先するようになっていることが極めて印象的だった。
具体的に言うと、いわゆる「こしょく」の傾向である。
一人で食事をとる「孤食」、家族と一緒に食事をとっても食べるものはそれぞれ別という「個食」のことだ。
実際、家族と一緒にご飯を食べる機会が減ったり、「今日のご飯はテキトーに食べて」と言われてインスタントで済ませたりしていることに心当たりがある方もいるのではないだろうか。
自分も中学や高校で「こしょく」問題については授業で受けたのだが、ピンとこなかった。その概念の説明と「家族との食事は大切にしましょう」というような薄っぺらい説明しかなかったからだ。
しかしこの本では、実際に家庭へのインタビューを行ったりや食卓のレポートを主婦の方から提供してもらったりなどかなり具体的な調査が行われている。それ故に、そこから得られる現実はあまりにも生々しい。
個人の自由を掲げて、時間や食べるものを各々の好きなようにしていた家庭が十年後二十年後、夫婦が不仲になって離婚していたり、親子の関わりがほとんどなくなってしまっていたり…
食事という普段の何気ない生活の部分行為に対して向き合うことを、面倒くささや個人の社会とのかかわり(部活動や仕事)との兼ね合いによって疎かにしてしまうことで、簡単に家族という関係を崩壊する方向へ進めてしまうというのが緊張感をもって感じられた。
(もちろん食事だけが根本的な原因とは考え難いが…)
自分の問題意識と合致するのはやはり日常に対する向き合い方が本当であるかどうかという部分だ。
本当に何気ない生活の中の、細かいところに神経を張り巡らせ妥協してしまっていないか確認し続ける、というような面倒な行為をしなければ、容易に人は堕落してしまう、という予感が自分の中にある。
朝何時に起きるか、朝食は何を食べるか、使った食器をすぐ洗うか否か、きちんと歯磨きをしているか、電車での移動時間をどう過ごすか…
このように生活は選択にあふれている。面倒だからつい楽な方を選んでしまいがちだ。だが、そのような選択を続けた先に待っているのは…
予感は本当かもしれない、そして今の自分もまた油断してしまっていないか?と改めて考えさせられた。
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