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虚と実

「いや、ほら、こちらの店はインスタなんかの写真がとてもお上手じゃないですか」。

とあるお客様と、とある日にお話ししていたら、ふと、そういう言葉に出くわした。それは悪い意味で発せられたわけでは決してなかった。写真がとても良いので、実物が見たくなるんですよ、といったような意味であるようだった。

でもなんだかその後で、どうもその言葉が引っかかってきた。

まあたしかに、作品を紹介する側としてはそれをかっこ悪く撮るわけがない。そうすることで誰が得するのかわからないし、どうせ紹介するんだったらイケてる感じに撮ろうとする。それは当たり前のことだろう。

でも残念ながらここでよく起こりうることは、スクリーンや液晶上で静止して黒光りされた凄まじくかっこいい写真としての作品を常に見ていると、実際の作品をその眼で見たとき、「・・・あれれ?」と思ってしまうあの感覚だ。べつにそれは写真が悪いわけでも作品が悪いわけでもないのだけど、たぶん誰もがどうしても頻度してスクリーンや液晶上を見る回数の方が多いので、そっちの感覚が勝ってしまうのではないだろうか。じゃあできるだけ虚のないように、まんま撮ればいいじゃないか、というのもまったくそうなのだが、愛する作品だからこそ、どうしても写真にも我がイメージ的なサムシングが上乗せされてしまうし、なかなか難しい。

例えばそれは作品だけじゃなくって、お店に関してもそうで、スクリーン上でいつもかっこよく写真で紹介された店に実際に行ってみると「・・・うーむなんだか」と感じることはなかなかに多い。御多分に漏れず、うちなんかもその一例だろう。まあいまどき実際の店に行って「うおおおお」と気分が震えるくらいにアガってひっくり返る、なんてところはそうそうはないし、あったとしても店側のこの場所いいでしょう自慢な感じも垣間見えたりして、僕としてはそういうのはそんなに好みでもなかったりする。・・・ここ、たまたま見つかったんすよね、くらいのユルいテンションが好きだ。もちろんその店の美学はあってしかるべきなんだけど、でもピンと張りつめ過ぎて、作品のどれにも触れられなくなるような美し過ぎる美学だったら(こういう店は結構あると思う)、僕だったらば、いらない。でもまあその辺はあくまで好みだし、だからこそ、いろんな店があってしかるべきなのだろう。

さあ、結局、答えはどこにあるのだろう。紛らわしくてヘンにストレスを感じがちな、ソーシャルネットワークサービスをすべて放棄してしまう、というのももちろんひとつの手だろう。うちの奥さんはマッサージ店を10年近くやっているけど、ハナからSNSをあてにしていない。もとから自分に向かない、と決めているみたいだ。それでどうなるかといえば・・・そう、たしかに虚を取らずに実を取る、というような、どうやら自分の眼を持ったお客様が付いてくるから不思議だ。いやいや、不思議じゃないのか。

のらりくらりと店をやっていながらも、なかなかこのようにどうにもならない物思いは尽きることはない。そしてそんなどこにも行きつかない物思いもすべて含めて、この店だろうと僕は思っているのだけど。

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