「データ活用」を使わずに「意思決定の質の向上」を主語にしよう
「食材を活用したおいしい料理」とは言わないのでは
「データ活用」というのはデータについて話をする際に「なんとなくデータを使ったこと」を指すことができる便利な言葉だと思う。
便利なので自分で使うこともあるが、そのたびにどうもしっくりこないと感じる。
「データを活用して〇〇する」といった表現がされたことにより、目的なのかが曖昧なままで「データを活用したら何かがうまくいく」という勘違いを大量に生み出してしまったのではないか、なんて考えてしまう。
このもやもやを何とかしたくて、「データ活用」という言葉について考えてみた。
「データを活用したら何かがうまくいく」わけではない
「データを活用した〇〇」みたいな言葉はよく聞こえる。これだと「データが〇〇をうまくやってくれる」、「データを使えば〇〇が成功する」と言っているような印象を受ける。
実際にはデータが何かしてくれるわけではない。意思決定するのも実行するのも人である。「データを活用したら〇〇がうまくいく」というのは短絡的すぎる。
「〇〇のためのデータ活用」だとそんなに違和感はない。おそらく、何がしたいのかがはっきりしているからだろう。
目的は「意思決定の質の向上」であり「データ活用」はその手段
なぜ「データ活用」をしようとするかと言えば、その目的は意思決定のためだろう。意思決定の質を向上させるためには「もっと知ること」、つまり、より良い情報(インテリジェンス)が欲しいときに入手できることが必要だ。
「知ること」とはつまり「データ」から「インテリジェンス」を作る「分析」であり、その分析のためにはデータ基盤が時には必要で、「データ活用」という言葉にはそれらが全部含まれているはずだ。
しかし、実際にはどうも「知ること」が軽視されているのではないか。それどころか「データ」と意思決定と行動の先の「解決」が直接結びついているようにも感じる。
「データ活用をすれば〇〇が解決する」という想像だけがただ何となくあるだけなのかもしれない。意思決定も実行も行うのは人であり、データは知ることの材料である。それなのに、データから何かが解決されるまでの間にある多くの段階が無視されている気がする。
「活用する」だと「今あるものを使う」になってしまう
それから、「活用」というと「今手元にある何かをよりうまく使ってみよう」というようなニュアンスがないだろうか。
「データ活用」だとデータという道具が今手元にあってそれを使う、みたいな感覚にとらえるのかもしれない。
しかし、様々な制約から結果的に今あるデータを使うことになる場合は多々あるが、最初から今あるデータだけで考えるのはデータ分析において失敗する典型的な例だ。
最初から「意思決定の質の向上」を使ったらどうだろう
書いては見たがあまりもやもやは解消していない。「データ活用」だとなんだかよくわからなくなるのであれば、最初から本来の目的である「意思決定の質の向上」を使えばいいのではないだろうか。
これならば「データを活用して何かしよう」にはならないで「どうしたら意思決定の質が上がるのか」に焦点が移りそうだ。そうなればデータ活用という曖昧な言葉はあまり使われなくなるだろうし、分析の高度化や基盤を充実させるのは選択肢の1つであることがもっとはっきりする気がする(他には例えば文化を広めることやリテラシーの向上がある)。
正確に言うと「行動するための意思決定の質の向上のために必要な情報(インテリジェンス)を作る分析という行為の材料であるデータの活用」なのだが、長いな。
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