「仮説」には「どうやるか」ではない仮説があるのかもしれない

どう実現するかではなく、何をするかのための仮説もあるのではないか

やるべきことがあり、それを「どうやって実現するか」をあれこれ考える、というのはみんな日頃から行っていることだ。この時に出てくる案のことを「どうやるかの仮説」と呼ぶことにしよう。

それ以外にも、「何をするか」や「あるべき姿」を考える場合がある。こちらは「どうあるかの仮説」と呼ぼう。例えば、人生の目標とか、会社の長期的な戦略を決めるような場合を考えるのがよいだろう。

ここで疑問に思ったことがある。果たして、「どうやるかの仮説」と「どうやるかの仮説」は、同じような考え方で進めていいものだろうか。

「どうやるかの仮説」と「どうあるかの仮説」は何が違うのか

両方とも「仮説」ではあるのだが、「どうやるかの仮説」と「どうあるかの仮説」を並べてみると、だいぶ違うらしいことに気づく。

「どうやるかの仮説」と「どうあるかの仮説」の違い

目的と考えること

「どうやるかの仮説」を考える際には目的がすでに存在する。上司の指示のように誰かに与えられる場合もあれば、ダイエットの目標値のように自分で決める場合もある。考えることは「その目的をどうやって実現するか」だ。

「どうあるかの仮説」ではこの目的を考えること、つまり「何を目的にするか」自体が目的になる。

強制的なフィードバック

「どうやるかの仮説」では「目的が達成されているか」がはっきりわかる。ということはもしある仮説を実行してみてうまくいっていなければ失敗しているとわかる。つまり、強制的にフィードバックが発生する。

「どうあるかの仮説」ではその目的が最も良いのかを判断する基準がない。強制的にフィードバックが発生しないためある目標が実は大きく間違えていたとしてもわからない。そのため良し悪しは自ら積極的に探す必要がある。

有効な方法

「どうやるかの仮説」ではフィードバックが起きて学習ができる。であればとにかくやってみて失敗して学習してやり直す、という方法が有効になるはずだ。

もちろん、リソースや時間には限度があるし、倫理的な問題もあるので無制限にできるわけではないが、実際にトライアンドエラーができるのであればそれ以上に確かな方法はない。

「どうあるかの仮説」ではフィードバックがなく、もし間違えた目標を決めてしまっても間違えていることに気づくことができない、あるいはより大きな目的があって、そこから大きくはずれて初めてわかる。

であれば、何かを行う前に事前によく考えることが有効になるだろう。

「どうやるかの仮説」の延長に「どうあるかの仮説」はないのでは

このように考えてみると「どうやるかの仮説」と「どうあるかの仮説」ではまったく違った向き合い方が必要な気がしてくる。ということは、「どうやるかの仮説」の延長として「どうあるかの仮説」の仮説を考えてはいけない、ということではないか。

「どうあるかの仮説」を立てられるようになるためには別の考え方が必要で、「どうやるかの仮説」をどんなにうまく立てることができても「どうあるかの仮説」の仮説を立てる力にはならないのではないか。

どうやるかの仮説しか学んでいない?

ところが、普段の生活やビジネスの場においてはほとんど「どうやるかの仮説」のことばかりに向き合っており、「どうあるかの仮説」を学ぶ機会があまりないのではないか。

最たるものが受験や資格の勉強だと思うが、それ以外にも思い当たることとしては、

  • スポーツではどんなルールを作るかではなく、ルールにどう対応するかに専念する

  • 経済ではどう追いつくかの時代のあとにどうあるべきかがわからなくなる

あたりも同じ現象ではないか。

では最近そうなったのかというとそうでもないらしい。『大本営参謀の情報戦記』でも参謀教育の話が出てくるが「いつどこからどれぐらいの敵がどう攻めてくるか」が与えられて答える、ということをしていたという話がある。

これがどこまで本当の話の検証は必要だが、とりあえず信じるとするとすればこれはまさに「どうやるかの仮説」そのものであろう。

そう考えると、「どうやるかの仮説」しか学んでいないからではなく「どうやるか」が好きな国民性だから「どうやるかの仮説」ばかりになるのかもしれない。

では、どうしたらいいのか?

と思った人はまさに「どうやるかの仮説」のことだけを意識している。

冒頭に書いたように、ここまでの話はまだ仮説にすぎない。今までの話が全て正しいということであれば、そのうえで「ではどうするのか?」は成立する。しかし、

  • 2つあるといったが、分けるとしてこの分類が適切なのか

  • 2つでなく3つ4つの方がいいのではないか

  • 2つの違いは他にないか、あるいは違いがあるように見える一部分だけしかみていないか

といったことはまだ議論できていない。なのでまずはこの「仮説」が正しいのかを検証してからでなければ「どうするか」を議論したところで無意味である。

つまり、「どうやるか」だけを考えすぎなのでは

ふと「どうやるかばかりでどうするか考えること少ないよなー」と思い立ったことから頭の中を整理するために書いた。まだ議論が粗いのは承知しているが、まずは公開してみる。

この手の話だと、どちらが正しいとか優位とかいう話になりがちだが、どんな分類をするにせよ結局は全部必要なのだ。全部必要なのに欠けているところがあるのではないか、というのが主旨である。

このあたり、データでも基盤の話ばかりで分析の話があまりされないのと通じるところがある気もしているが、それはまた別の話。

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