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愛というもののイメージが変わった時

愛というものを考えていると、一向に答えは出ない

受容する事、優しくすること、寄り添う事、仲良い様、愛でる事

どれも愛ではあると思うが、とにかく愛は一言では語れないどころか、決まったものなどないことで
なかなか説明がつかない

そうすると、愛とはどのようなものにでも「宿る」ものであると考えるようになる

「宿る」といえば魂や知性、意識といったものでも、万物に宿るという神秘学の教えを用いれば、これらと愛の境界線は何なのであろうかと考えてみたくもなる

私としてはリーディングを通して皆さんの人生と向き合わせてもらっているので、愛というものを扱うことは当然多い、そんな私としては、ある程度の見識というか認識を持ちたい衝動が当然ある

そこで出た、私なりの一つの答えは

「愛は、私たちを動かすエネルギーそのもの」

となってしまった

私は人生というものは経験として捉えているが、50年間にわたる様々な経験の中で、愛について学ぶ使命を受け入れた瞬間がいつきたのかというと

つい昨日のことである

これまでは、愛というものを
どこかで受け入れてきていなかったように思う

それは意識的に受け入れてこなかったのではなく、無意識的に愛というものを受け入れていない自分がいるな…気付いた。

愛の状態の自分と、そうでないときの自分との違いを見ることができたし、他人の中に愛を見た時に自分にはそこに愛を見い出せてない、ということも良くある。

そのような時、愛の状態とそう出きてない時との、境目を認識した時にわかった

「愛は常にそこに在る」ということを

どんなに悲観的に思えても、どんなに苦しく孤独に思えても、たとえ人生をやめたくなっても、なんで私達人間は人生をやめないでいられるのか?という問いを自分に投げかけた時、それは、物理的な満足感や目標だけ見ていてもわからなくなる時がある。生きる為、食べていくためだけに「何かをしなくてはいけない」という物理的目標だけの視点を持っていてもわからなくなるが、
「愛について学びたい」と気が付いてしまえば、しっくり来たわけです。

それは勿論私のPTSDも関係をしている

極端な恐怖心や警戒心、孤独感や枯渇感という何十年という苦しさと、そのコントラストが愛であるというこれまでの愛というものに対する認識とは違った愛の解釈が生まれたのです

この地球上には大人になっても、いわゆるPTSD的症状に気付かずに苦しんでいる人が沢山いると思います。何しろ自分のことに、このような精神的な症状に気付きをもたらしたとしても、思い込みであると軽く片付けてしまう事をしてしまいがちだから。

誰しもが自分を語ってみるとわかると思うが、自分を語ることはかなりの抵抗と罪悪感を感じるであろうと思う

自分を語ることと、自分のマイノリティーな部分を受け容れて、それらを世の中にある言葉に置き換えていくことは、人に印象としてインパクトを与えることになるので、反応も様々であり、その反応にどう対処して良いかは本当に難しいところがある

それらのことから
自分を語らずにいてしまうと、自己否定という形にしてしまうもので、それは美味しくない事であると私は言いたい。

自分なりの気づきを自分に許すと、愛をそれぞれに解釈ができるようになる

そしてそのそれぞれの愛に対するフィーリングが、人と人とを結びつけていることを容易に出来ることに昨日気が付いた。

これは自分が、愛でいられなくなる瞬間があるからこそ、発見できた愛への気づきで、それはやはり自分一人では気付くことができないもの

愛というのは、一人では気付くことができないことは、愛は、他との関係においてフィーリングで認識できることだと思う

一人では気付けないからこそ
恋と愛は結びつけられてきたのだと思う

愛を持って行動するということは
行動の全てに、愛があるから行動するとは限らないという認識ができてしまうのは当然であり、愛が私たちを動かす唯一のエネルギーと言ってもピンと来ないかもしれない

しかし、私達が行動する時に
その行動の根底に、愛を無くして行動できるのか?と言えば、できないのだ

例えば、ホームレスの人たちを見ていて、行動ができない根底に愛の欠如があることは、見て取れるし、愛の欠如を人生の中でもたらす何らかの社会的環境的要因があった事は私の経験としても明確であると思う

これは他人からの愛が無いという意味ではないのだ

私の言いたい愛というのは、親から子へとか、男性から女性への感情的な行動とは話が違う

愛というのは、私たちが人と交流したいと思う「そこ在る」し
私たちが経済活動をしたいと思う「そこに在る」し私たちが恋愛をしたいと思う「そこに在る」

何かをしたいと思う時は
「そこには、愛がある」のです

していることの根底には愛があるので、そのことが、どれだけその人の行動を支えていて、その人の正義の基礎であるかということなのです

その、愛をもとにした行動であるがゆえに、否定されると、起こるのが人間なのではないかと、最近は考えるようになったわけです

先日ニュースでやっていましたが、ネットで誹謗中傷をしてしまう人の意識にあるのは、正義感だそうです

ここに疑問の湧く方も多いですが、私たちが行動に掻き立てられるのは、根底に愛、正義感といったプラスの思いがあるからです

それが、歪んだり歪曲したりひねくれたりすることがあるのであって、人、人間のことを理解しようとすればするほど、また、自分を知れば知るほど、そこには愛への枯渇があり、愛の枯渇が様々な歪みとなって行動に転嫁されることがわかります

愛を語ることが憚られるのも、全ての根底にあるものだからであると理解できるし、愛していると言葉にするのも、誠実に接しているという意識が強ければ、言いたくなくなる気持ちは理解できる

誠実は愛の証というフィーリングだから

言葉にすることで、とても安易なものになってしまうような本質的な文化が、日本人の行動原理にはある様な気がしてならないのです

ならば、人の悪行をどう考えるかについては、稚拙な文章力の私がここで述べるのは、控えさせてもらいますが、歪曲している、屈折している、歪んでいるということが、調べれば調べるほど見えてきます

愛への衝動が歪む


私たちが、行動を起こすきっかけには、必ず愛があります

それを意識するかどうか?

愛を意識し始めると、行動もよりパワフルに変わってくる

その時、様々な葛藤のアンバランスさは如実に露呈するので、その葛藤にバランスをもたらす方法が、私たちの精神性の統合によって可能であるのだろうと思います

だからこそ、他人と深く関わりたいし、恋愛をしたい

それは愛を見出し、自分の人生に生かし、愛にアクセスすることが、人生の誰しもの共通の課題であるというように思えてならないわけです。

愛に向けて意識を統合させてバランスを取るから、人の意識は無限に広がっていくということでもあるのかもしれない

百一匹目のサルのように


愛を欲している、愛を見出したい、愛を分かち合いたい、愛とは何かを知りたい、愛を自分の人生に創出したい

これらの衝動が私たち人間の全ての行動の根底にあることを、踏まえて行動を見ていくと、とても沢山のことが良く理解できることが多いのではないでしょうか。

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