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運気の良し悪しの流れを読みなおす

ホロスコープを読むことや、様々な占いにおいて「吉凶」を読むというのには気をつけるべきことがある。

それは吉凶を占うというやり方

占いというのはとても良いものであると思っている私としては、より活用できるようにするためには吉凶を占うことなど、やめてしまえば良いと思っている。

というか吉凶をもっと違う読み方にすれば、間違いがなくなり、とても役に立つと思っている。

人生が良いも悪いも無いという読み方こそが、占いというものを、誰もがより積極的に人生に取り入れることができるからです。

積極的に取り入れるというのは、運が悪いと言われたらそれを気にしてしまい、その運が悪いとされたところは、気を付けなくてはいけなくなることで消えてしまい、心配事を増やすだけになる。

そんなのいらんよね!

現に私が占ってもらった時にも悪いところは気をつけていけば良いと言われ、具体性もなくただ悶々としたのを忘れない。

占いによって消極に拍車をかけること自体、占いの意味をなさないのではないか!

より積極的に人生に取り組める方が、占いの面白味というもの。

占いの情報は、この辺の区別をしっかりと区別して選んだ方が良い。

Benefics(凶星)は火星、土星、天王星、海王星、冥王星そしてMalefics(吉星)を太陽、月、水星、金星、木星として、良い星悪い星があるとしている。アスペクトによっても吉と凶と区別して読むという傾向はまだまだ存在している。

もうこれらの吉凶の解釈は今からはどんどん変えて行くべきだ。

二極的な印象に囚われることを強調させると、対立した2極的な感覚から抜け出せなくなるので、2極への囚われとなり、それ自体が必要のない苦しみだからだ。

2極に囚われない感覚を掴むことこそ、その2極のものの動きの中で、私たちが自分で選択するものを見出すことができる。

しかし分離的な時代のハッキリとした目に見える形でないと信じることができなかった時代には、強烈に表現する必要性が、占いを楽しむという面では役に立つ。

それぐらい刺激的でないと占いも注目してもらえなかったのかもしれない、そして激しいこと言わないと響かない時代だったのかもしれない。

この分離的な観念「人と人は別」を強調した意識の下の2極化を強調する解釈は、決して占星術に限ったものではなく、観相学や手相といったものの読み方においても同じだった。

私が初めて観相学や手相を勉強した30年前には、私の運命線には島があり、これは一家離散を表すと言われ、島は凶の印、良くない印の象徴だし、耳が小さいと小物で顎が小さいと人生が倒れやすいと言われた。

実際に私は、父親が失踪しており、母親の厳しいしつけによりPTSDを患い、就く仕事就く仕事で苦しむばかりで、常に会社をクビになる流れを生んできたりと、この読み方は決して外れではないと言える。

しかし私がここで間違いだとハッキリと申し上げるのは、現在の私が全く不幸ではないから。

運気は他人が決めるものではないということ。

30年前に今の私の人生を評価すれば、不幸な人と考えるのが普通かもしれない。

今でも他人から見たら私は運が悪く不幸の人生と感じるかもしれないけど、、、

しかし、今は時代の流れは急激に変わり、他人からどのように見られるかというエネルギーはほとんど威力がなく、自分次第で人生は豊かになる。

そして現に私は30年以上にわたり、占いや神秘学を学んで、吉凶の運勢のサインが手相にもホロスコープにも多くても、それがどういう事か自分で解釈をできる。

そうすると不幸と思っていないというどころか、かなり楽しい人生なわけです。

私は良く自分の不幸話しをするのだけど、それが楽しい!

先日テレビで幸せについてやっていたので何となく見ていたら、そこにいた心理研究家が、「若い時に貧乏で苦しんだ人の方が、50歳を超えて幸福感が高い」という研究結果があると言っていたが

私は今年で50になりますが、つい先日幸せとはこういうことだと、愛を一つ理解することができたばかり。

凶という不運の経験をしたことが幸せをもたらすことは事実です。

占いの古い解釈の凶と言われる読み方は、不幸をもたらすどころか、凶を幸せに変える力をつけさせる、凶こそがより自分で道を切り開く力をもたらす。

凶と言われて落ち込むことはないわけで、それどころかそれこそが強み、楽しさの原点ということ。

ホロスコープや、占いというものをしっかりと信頼して使うことの方が伝わるべきだし、その目に見えないことへの信頼の仕方こそ伝わらなくてはならない。

その結果「自分で読む」ということができるようになり、現在の様々な情報に対する対処ともなり、有益なものとすることができる。

ホロスコープでも、きついハードアスペクトがあるということは、そこが鍛えられるということだし、それは自分なりの読み方をして、自分なりの人生の捉え方をして、自分なりの人生観を持ち、自分で自分の幸せを決める、そういうあり方をしなければ意味がないということを教えてくれている。

それが占いを信頼するということではないか。

占いを信用するかどうか?の問いは議論を呼ぶが、占いとは自分で役に立たせなければ、決してそこに結論を見いだすことはない。

占いに結論はない。見出せば結論とできる。

どんなに当たると評判の占いであっても結論はない。自分で見出すことで結論を感じることはできる。

他人の結論と自分の結論は別でしかない。

あるのは自分で自分の人生を切り開く意志の下にどのように読むべきかという、自分なりの解釈の上での役立たせるものがあるということではないかと思う。

決定づけるものでなく、頼りになるものが占いであるわけです。

頼るのではなく、力にする。

当たり外れという捉え方自体が、占いをジャッジするあり方となっているので、それは決して幸福をもたらす捉え方とはならないわけです。

たとえ良いと思う事が当たったとしても、だから何?となること間違いなし。

良い事を言われても、良く当たったとしても、大したものではありません。

たまたまとしか思えなくて当然です。

決して当たったからといって、信じて良いものではないのです。

人生を自分なりの能動的行動をしていき、宇宙と繋がることこそ、理屈ではない歓びを知るかもしれないわけで、それにしても経験しなくては、喜びを喜びとして受け取ることもなく、他人から喜びなど本当の意味で与えられない。

それが、このユニティーの時代に、わざわざ地球の物理的次元に生まれてきて、この人間という肉体に入り、「私」という意識を経験する醍醐味であるのではないかと言えます、、

それだけ、人間という肉体を持って生きるということは、大変なものであるということです。

せっかく大変な思いをして、エキサイティングな地球の人生を、豊かに楽しむことをしなくては、何のために生まれてきたのかという迷いは消えないかも。常に

私たちの人間の多面性を生きる時には、この太陽系の人間として、様々な要素がある存在として見ていくと、人間というものをつまらない存在から、楽しい存在としていくことができる。

若い時に私はこのような細かい事が、どのように扱って良いかわからず、盲目のように過ごし、葛藤を抱えていた中でも、大人には結構その葛藤をぶつけていた。

常に細かいことが気になり、それに応えてくれるものは無いか、本で読むか宇宙に聞くしか、その答えらしきものをくれるものはなかった。

これも不運と言えば不運だが、強烈という面白い経験が生んだ私の中の葛藤は、その後他人に対する不信として続いていく。

私のホロスコープにはこのような葛藤をもたらすアスペクトがあり、ホロスコープの通り、まんま葛藤を経験している。

これを、幸せに変える術は50歳の誕生日を前にしてやっとわかったところ。

様々な経験を通して見えてくる人間というのは、意味の無いようにも見えて、やっぱり意味がある。

意味は能動的な人生への捉え方からこそ見えてきて、意味というのはあるのではなく、見出すと言った方が近いということです。

この宇宙は様々な星があり、様々な銀河があり。

その中で、意味を見出すということが、それほど容易いものではないことは確かで、人それぞれに意味を見出すことは、この地球人生において今、とても面白いものかもしれない。

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