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物理的やるべきこと、抽象的やりたいこと

やりたいことをやっているのに楽しいということがわからない時というのごあります。

楽しいはずだったやっていることが、しなくてはならないということをしているだけになってしまっていて、楽しめなくなるという話は、スポーツにしても音楽にしても、やっている人は必ずと言っても良いほど経験する体験です。

これはやりたい事がやらなくてはならない事になりやすいということですが、やりたい事とやらなくてはならない事とは、境目がわからないものであり、事に対する時の取り組み方に対する意識の持ち方であって、意識の矛先が、物理的なやることに向いているか、抽象的な精神論に向いているかが大きく関わっていて、この精神論が見直しの必要なときであることは、みずがめ座の時代に入った今急務なことであるでしょう。

精神論はこれまで「やる気があれば何でもできる」と言った、ごく大雑把なものとして使われていた。

それは、人の士気を上げれば良いというものに使われてきたのであったと言える。

私が昔ある宗教団体に親友に誘われ入っていた時にも、このようなプレッシャーを強く感じたものであって、それとよく似ている。

これらの精神論を説くものは、聴衆や会員といったものの士気が高まることに主旨を置いていていると感じるものばかりで、いざ蓋を開けてみると、やる気があれば何でもできるって、そのやる気が難しいと感じたりするものばかりであった記憶がある。

かんじんな所は語られることが無く、印象だけ良い事のように聞かされていた。

発信する側は、聞く側の私たちが印象に囚われ、印象に支配されてしまいやすいものであることをわかって使っていたと言える。

これからの精神論は、今後根拠のあるものと変わり、一人一人個人の中で育まれるものであり、決して他者から受け売りで芽生えるものではないということをしっかりとわきまえて使わなくてはならない。

このかんじんな所にしっかりと価値を見出して発信していく時、本当の意味で力は発揮する。

それは、士気を高めるといった趣旨のものではなく、自分のやる気をくすぐる根拠たるものであるべきで、一言二言で声高々に叫んでいれば良いとは到底思えない。

やらなければならない事が、現実的なこの物理的やることと、根拠の伴った精神論としての抽象的な意図とをはっきりさせることで、やらなくてはならない現実的なものが、自分にとってやってて意味のあるものとなる。

恋愛で一緒に生活をすることになったとしよう。その生活の中では、恋愛していられない場面の方がほとんど。その恋愛していられない場面の中ではとてもシビアなやり取りになるわけで、そこからどのようにそれをしたい事に変えていくかという難題が湧いてきたときには、精神論的意図が役に立つということになる。

今精神論はとても個人的なものであることが求められており、それは我々個人の一人一人が向き合わなければ見えて来ないものであるということでもある。

個人的な精神論ということは、自分のやっていることに対する見解を拡大させて、現実的にやっていることと、自分のやりたい事とを繋げていくものである。

これは「現実的にやること」に対する、「自分の内面の反応」を通して見えてくる、「やることの意味」であって、それは、自分という存在を自分として扱うということで、自分の個性をみる。

その外側の物理的現実に直面している自分と、内面の自分との関わり方からこそ自信が見えてくるものであり、その見えてくる自分を通して、思い込みや過度な感情的な反応ということをどのように扱うかを見ていく、そうして自分を縛り付けるものに対する方法は見えてくる。

自分を野放しに勝手にやらせていると、私たちの感情や思考というものはある場所に囚われ、やりたい事がやらなくてはいけない事となってしまうわけで、やるべきこととなった自分の行動指針は、失敗できないものとなり、やらずにはいられない事とって、挙句それができない自分を責めるようになる。

そこまで苦しい思いをしてもなお続けることも普通にあるが、そこを経験すると、そこまでのめり込むことの楽しさと、そこまで乗り込まない方が楽しいこととに分けることができるようになり、その二つを知ることで客観性というものが確認できるようになる。

客観性というものを一般的に言うところは、他人事を指す場合が多く、実は客観性というのは他人事な感覚のものではない事がここでわかってくると、当然分離的な感覚と統合的な感覚の違いを掴むことができる。

私たちはやりたい事とやらなくてはならない事との間で何が必要かを学ぶことが大切であるが、それこそ、実はやらなくてはならない事があるというのは幸せなことで、幸せと思えないということは、何らかのバランスが崩れているだけで、そのバランスが崩れる体験ですら貴重なことでもあるので、まあ基調というか、重要なことというか、だから、やりたい事を初めてやめたうなるということはこれらを経験しているという意味で、どんな結果であってもやりたい事が出来ていると、終わってみて気付くということになる。

物事は終わってみないと気付けないので、やる前に考えることは、やるために準備だけで充分であって、そのことが自分にとってどうであるかは、終わってみないとわからないということになる。

どちらにしても結果をポジテチィブに受け止めれば、必ず、どのような経験も自分にとって必要な経験として受け止めることができるのです。

トイレ掃除は物理的にめんどくさいことであっても、それが、抽象的な心身のリフレッシュと目の美しいものに対する栄養を考えると、意味の強いものとして受け取れた時に統合された私たちの行動はより力強くなっていくことになるのかもしれない。

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