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エッセイ - 三つ巴の世界

そう、幾つもの記憶が、交錯しながら、あれもこれも、書いておきたいと思うけれど、もれなく全てを描き切るということは、本当に、同じだけの時間があったとしても、時間というものが、どこまでも伸び縮みする存在であるから、逐一書けばそれで事足りるかといえば、全くそうではないことに、私は途方もない気持ちになる。

という途方もなさ、この世界の私たちが生きている世界の際限のなさが、芸術や物語という様々な具現化の術が誕生し、実践されることの一つの理由であろう。

これらの行いの中に、つまり私という存在から観測されるその時点における一つの星空の模様を、映し取っておくという、ことによって、私は、その時点における一つのパースペクティブを得る。そしてそれはある瞬間におけるコンステレーション(星座)として、ある意味で、過去を照らし、未来を予感させる。

いずれかの時が過ぎてから、その星座は、時間という距離を持って、眺められ、ある時に、その作品が照らす、新たな景色に出会う。

また、いずれかの時が流れ、全く別の時代の別の言語を操る、別の惑星の種に、翻訳されたその作品が、触れられる。その存在によって、星座は、新たな距離と視点から、観測され、見られる。

私たちの住む宇宙は、常に変化し続ける中で、時間性と空間性から自由な地点から、それらは、私たちに語り続ける。

無言の縄文土器のように、力強く雄弁に…

一昨日のマドレーヌの味は、プルーストの"それ"とは違い、私に深い記憶のスイッチをおしはしなかったが、私はプルーストが、感じたことを、全く別の文脈で、あるいは別のスイッチで、体験してきたことを思うのだった。

それは、あるピアノの和音かもしれず、あるいは、ひぐらしの声かもしれない。

いずれにせよ、私は、その時間性から、逸脱した"領域"について、私が体験したところのことを、書き残しておきたいと思う。
そこはある意味で、古くから、物語が生じる"穴"の向こう側であり、アリスが迷い込んだワンダーランドであり、あるいは千尋が迷い込んだトンネルの向こうの世界だ。

また、あるいは、荘子がみた蝶の夢の世界であり、更級日記を書きながら、彼女が日記という形態を通して、巡る記憶の語り部の"領域"である。

それらは、人が、世界を認知している時の、本当のありようなのだ。
そこには、論理的でないもの、整然としていないカオスを内包する、そしてそれは、私たちの意識そのものの不可思議な情報を、二次元上に語ろうとすると必然的に現れる命の躍動である。

ブラックホールの内部の情報が表面に書かれているという一つの仮説もまた、ミクロコスモスとマクロコスモスの相似性として感じるのも、分けないことである。

そんなわけで、人の中には、ブラックホールが、蠢いていると私は思うのである。

飛躍は夢の論理である。意識の流れを記述していく、その行いは普段の顕在意識では考えないようなことが、容易に流れ込んでくる。その流れを汲み取ることが、きもだ。命の動きを優先するのだ。判断は後回しにして。
私たちの中に広がる、カオスの動きを、点描していくのだ。
最初に全てを把握することなどできない。
私たちが生きるということがそうであるように。
本当に生き生きと、煌めく感覚を定着化させようとしたら、まず私たちが、その命の流れに、身を委ねている必要がある。



娘が生まれて、半年も経たないうちに地球上にコロナ禍という現象が現れた。私は、その時期について、いいも言われぬ感覚を持っている。自らも意識できない領域で、それらが、私を傷つけ、また癒した。

それらは、簡単に白黒、善悪では、語りきれない。

この時期に、何か、すべての人とは言わないが、人類の多くが体験した全体的な記憶について、私たちは、この時代を生きた人間として、語り始めようと思う。

私にとってそれは、新しい命(娘)との邂逅に始まり、人類史上稀に見る世界的な疫病の流行という、二つの軸において新しい世界が、同時に幕開けし、否応なくその中に、放り込まれ、その二つに重なり、独自に展開する新しい世界と、旧来の過去の世界という、三つの世界を、ある意味で、様々な歪みを持ったまま、無理くり一つに統合していくような時期であった。

きっと生涯にわたってこの時期について、その時々の"今"を通して見つめることだろう。個人として、娘が、0歳から4歳という時期であったということ、地球全体がアリスの穴の中に投げ込まれたような時期であったということ、そしてその過程で、個人の中で、あるいは全体の中で、様々な過去の世界が瓦解していったこと、不思議なこの三つ巴の世界の記憶を。


2024.7.27

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