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福岡で小沢健二を聴く。

ちょっと散文的な投稿。6月中旬に、オザケン(小沢健二)のライブが福岡でありました。堰を切ったようにそのとき感情が溢れてきたので、書きます。(6月に書いた記事。)


旅行で来るときにいつも「ここが福岡か」と確かめていた景色があった。天神のパルコと福ビル前の交差点で見る、奥まで長い天神駅のビルと屋台の見える姿だった。

初めて福岡へ来たのは2016年8月。その頃の天神駅。

街で耳をそば立て目を凝らすことは、この数年間意識的にやっていた癖であり、最近はそれも当たり前のように無意識にやっているような気さえしてくる。

大学院進学にあわせて福岡に引っ越してきて、もう3ヶ月が経とうとしている。「ふ〜ん」という顔をしながら毎日この天神駅を歩く。住んでいるのは駅に近い中心部で、いつの時間も外で音が聞こえる。高校生のときから勝手に思い入れの強い福岡だけに、あれだけ「福岡だ、福岡を感じている…!」とゾクゾクしていた景色は、この期間で不思議なことに、もう日常の景色として認識されていて、どちらかというと毎日毎日「乗り遅れる、急がなきゃ」と焦る思いが、駅のそばにいると自然と出てきてしまう、そんな感じ。あるいは、家に帰るか、という気持ちだ。にしてつReganetで野菜買い忘れたっけ、とか思いながら。
意識的に街を感じようと思えど限界があるもの?と自問自答している近頃である。

天神駅に隣接する、戦後早くからある商店街「新天町」をいつも歩いている。
昼の賑やかさと反対の真夜中、この静かな時間も好きである。

そんななか、6月10日、オザケン(小沢健二)が一気に僕の目を新たにしてくれた。天神駅から自転車で10分もいかない港沿いにあるホテル「福岡サンパレス」のホールでライブがあったのだ。私は大学院の授業とミーティングを終えて、家に置いていたチケットを持って向かった。

このライブは、本来2年前に行われる予定だったもので、コロナ禍あれど地道に延期を続けていたから、ファンにとっては待望だったといえる。私は、今年に入ってから「若干数新たにチケット販売します」の知らせをみて応募し運良く参加できた、という経緯。charichari(自転車)を走らせ会場へ。

会場だった「福岡サンパレス」は大きな曲線と規則的な美しい窓で構成されていて魅力的。ロビーに入ったところでも満足感がある。いつもすぐにそういう視点になってしまう。

絨毯の色、Drink CORNERの文字、柱、換気扇のデザインに酔いしれる。

入ると物販に人だかりが。それとあわせて、ロビーにはいくつかの地図が貼られていた。今回のライブのために用意されたもので、かなりの枚数がある。現実の地名がはっきりとそこに示されているのを見たために、僕にとっては安心して入り込めた。

歌詞に登場してくる地名一つ一つが、本人の繊細な感覚と事細かに対応していることを、しっかりと目で確かめる。ここで見たプリントされた地図、ホールで声に出された歌詞、それで一気に、僕自身にとっての東京が溢れてくる体験をした。

東京を過ごす

彼の歌詞には頻繁に東京の景色が出てくる。それが無数の個人と、時間と脈々とつながっていることを知っている。

私が、小沢健二の曲を意識して聴き始めたのは大学生になってからだった。4年前。東京のど真ん中に自分の通う大学があって、千葉から通学していた。浪人時代も含めたら5年。くまなく東京を歩くのが、空きコマの楽しみだった。というよりも、歩くために、意図的に長い空きコマを作っていた。

僕は大学で地理を専攻していたが、歩いたりする趣味の時間は、正統派の地理というより少し別視点から地域を見ていたことが多かったと思う。中沢新一の『アースダイバー』、赤瀬川原平の『路上観察学入門』、(何度か講義を聞いたこともあった)陣内秀信先生の『東京の空間人類学』などなど。歴史や地形に忠実に想像することはもちろんだったが、歩くときはもう少し感覚的だと思う。街の音に意識を向けていたことが多かったが、もっとイヤホンのなかで現れる「東京」を重ね合わせるのも好きだった。世田谷線の周辺を歩くときはくるりを、港区渋谷区の境目あたりを歩くときははっぴいえんどを。景色が気持ちを代弁してくれるような思いになるのだ。景色から音から、時代を飛び越えることができれば、その土地でどんな人が生きて何をしていたのか想像できて、その感覚は、自分の中で失いたくない、大切にしたかったりする。

コロナで大学に通えなくなったのは2020年、3年生の春だったが、昨年4年生になって東京を離れた。大阪に国内交換留学したからだ。そしてまた半年経った9月に再び東京へ帰ってきた。ややこしいことに、今年の春からは福岡にいる。

いまいる福岡の大学院の入試があったのは、大阪から首都圏の実家へ引っ越す数日前だった。この先どこにいるのか確証もないまま、大阪から首都圏へ帰らなければいけなかった。
地に足つかない数日間を過ごし、お世話になった大阪のみなさんに別れを告げ、ただ友人の車に乗せられ東京へ帰る。そうして東名高速の東京ICを抜けて首都高へ入った頃は夕方だった。

帰ってきて2週間ぐらいで「福岡行き」の結果が出た。
念願かなっての福岡、しかし

小沢健二の曲に出てくる「公園通り」や「駒場東大前」。

私はここ1年ぐらい、オザケンのなかで
『強い気持ち・強い愛』が一番好きだ。そのなかでも、3番の歌詞に猛烈に共感してきた。

空へ高く照らし出された高層ビルのすぐ下
ほらあっという間の夜明けだよね
美しい空 響き合う空 誰も見たことのない日々を
ぎゅーっと胸に刻みたい
ああ、街は深く 僕らを抱く!

強い気持ち・強い愛 小沢健二(1995)

都市に抱かれている自分を自覚することが、確かにある。
特に、私は昨年の春夏の半年間を大阪で過ごしたので、秋に首都圏へ帰ってきてからは、それまでで見慣れていた東京への安心感に満たされていた。

もともと、僕は高校生のときからことあるごとに「東京圏から出たい」と言っていたと思う。しかも、浪人もして九州へ行こうとしたのに行けず、東京に通うことになったのが2018年。しかしその大学生活で東京という街の良さにたくさん気づいて、何より成長させてもらった感覚が大きい。大学で会った人たちも、ほんとに会えてよかったと思っている。納得できない態度をとっても、東京という街は受け入れてくれた。それは丁寧に言えば、反発したり、納得できない態度をとっても、許してくれたり期待してくれる人がたくさんいた、ということも含まれていると思う。

東京というあまりに大きな都市は、人の多さという数字で表されるものだけで成り立っているのではない。その人それぞれの経緯や経験、その先の期待や目論みの総体として、ものすごいエネルギーと包容力を持っているんだろう。

どうしようもならないとき、街を歩いていて救われるのは、そういう環境に抱かれていると気づくからだと思う。
(細野さんの『終りの季節』にもある“朝焼けが燃えているので 窓から招き入れると 笑いながら 入り込んできて 暗い顔を赤く染める それで救われる 気持ち”という歌詞も似ている感覚を言い表している気がする。)

オザケンもきっと、そういう一人の人間だったかも、と、そして自分が生活していたその街の地面は、オザケン含め無数の人がいろんな思いを抱えて歩いていた道なのだろうと、この地図と歌詞を見て、想像膨らませたのだった。そこを、掬い取って形にできるということに、うぉぉぉぉと唸ってしまった。

2020年のオリンピックも、当時うわついた勢いで実施しようとしていたところにコロナがやってきて、同様にうわついていた東京も少し落ち着いたような気もして、勝手に私は安心した思いもあった。一方でコロナで人がたくさん亡くなってしまったこと、仕事が成り立たなくなってしまったことは、本当にやりきれないと思う。その、とても板挟みの気持ちのなかで2,3年を過ごしてきて、その先の、今を生きている。

いま私は福岡にいる。
サンパレスから自転車で家へ帰っていくと、天神駅の長いビルが見えてくる。天神PARCOは渋谷に、この長い天神の駅ビルは、浪人中によく見た池袋駅の東口に似ている。それでもここは天神である。

東京の素晴らしさを強く認識した数年間を経て、念願かなって福岡へ来た。自信を持って、まずはこの与えられた2年間を過ごしていこうと思う。

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