未発表掌編 『その十年が過ぎました』(2023.5)
十年たってもお互い独り身だったら結婚するか、なんて三文ドラマじみた約束をしたのは二十三歳の冬だった。もちろん本気だったわけではないのだが、完全に冗談ってわけでもなかった、というのがこの話のミソだ。十年先だなんてほとんど現実味がなく、だけど実際にそんな未来が来たならマジで結婚するのもアリかもな、みたいな感覚を抱けるぐらいには、俺らは唯一無二の親友だったし、唯一無二の腐れ縁であり続けた。
「──で、その十年が過ぎたわけだが」と、俺は言った。
「できねえなあ、結婚」向かいの河北がしみじみ言った。
行きつけのスペインバル、その賑々しい店内である。熱々のクロケッタやスライスされたハモン・イベリコ、そんなものをつまみつつ俺らは円卓に着いている。
「確かに十年後だなんてぼんやりしてたけどよ。まさか、結婚自体ができねえとかは思わなかったよな」ビールグラスを片手に河北が言った。「オランダで同性婚が導入されたのが太古の二〇〇一年だろ。そっから時代はコンスタントに動いてて、台湾にまでその流れが届いたあたりでいよいよだなって俺は思ったし、覚悟みたいなもんも生まれたんだ。つまりは南郷、お前と結婚する覚悟的なもんがさ」
「同じくだ」と、俺もビールを飲みつつ言った。そう、俺らはゲイでもバイでもないくせ、その辺の動向をうっすら気にしてたのだ。適当な約束をした当時の俺らは「まあ、さすがに日本も十年後には」ぐらいに思ってて、世界の潮流を当然のものとして眺めてたのだが、本邦の状況は遅々として動かず、近年はむしろ後退している感さえある。あのキューバにすら追い抜かれる始末なのだ。
「となるとこう、いよいよ動かなきゃって気になるし、意地でも結婚してやりたくなるよな。俺らはともかく、切実に制度を求め続けた人らを思うとムカッ腹が立つ。いいか、人間っつうのは誰しも限られた時間の中を生きてんだ。バーカ、バーカ!」
ガキみたいに喚いて河北が牛のサイコロステーキを口に入れる。「こっちのバカなら旨えのにな、いい感じにアホも効いてるしよ」などとモゴモゴ言ってニヤけるが、これはスペイン語で vaca は牛、ajo はニンニク、という河北お気に入りの【鉄板ジョーク】で、ステーキだけにな!! までがひとつのセットである。
ともあれ俺は言った。「ま、動いてやろうってのは同意だよ」
こうなったら婚姻平等化の運動にも参加したいし、それをやるなら男女間賃金格差の是正など、付随する種々の問題にも挑んでやろう、というところまでは既に決めている。当たり前な話、女同士より男同士の方が有利、なんてのは完全にクソだからだ。
「──けどさ、河北。それはそれとして、実際こうなる可能性って、あの頃はどのぐらいと見積もってた? 正直、俺は15%ぐらいかなと思ってたんだが」
その半端な5は何なんだよ。笑ったのち、河北はすぐに腕組みをして、
「うーん、俺的には35%ぐらいはあったかなー。なぜって俺もお前も恋愛伴侶規範? みたいなもんが薄かったし、結婚願望もなかった。クソな家庭で育った場合、結婚に理想を抱くかどうかっつうのは割と両極に振れがちだと思うけど、俺らはマイナス方面にいった。気が合うな、みたいになった理由のひとつがそもそもそれじゃん」
確かに、と俺は認めた。「高校の同期にまあまあ引かれてたもんな、特にラグビー部の連中には」そこで、ついと思い出した。「そういや、こないだ平野の奴と久々に会ったんだが、お前との今後について話したらビビッてたよ。お前ら結婚制度のことをあんだけボロクソ言ってたくせに、って」
「いや、そこは話が逆っつうか、結婚賛美的な傾向があったらこんな選択はしねえだろ」
「あと、こうも言われた。この先、一緒になりたい女でもできたらどうするんだ」
は、と河北は息を吐いた。いかにも平野って感じだなあ、と嬉しそうにしてから、
「億が一、離婚が必要になったらするし、必要ないならしない。それだけじゃねえか。念のため、離婚時の取り決めなんかは前もって書面にしときゃいいしよ」
俺はわざと肩をすくめてみせた。「俺もそう言ってやったんだが。けど、平野の奴は頭を抱えて〝結婚をなんだと思ってるんだ〟とか〝そんな軽率に結婚したり離婚したりしていいと思ってるのか〟とか」
いいに決まってる、と胸を張る河北に、だよな、と同意する。河北はさらに続ける。
「だいたい、多くの結婚ってやつはまあまあ軽率だし、俺らのそれより慎重な結婚とかレアだろが。なんせこれは十年計画で、出会ってからは二十年近いんだぜ。お互い知りすぎだっつうぐらいに熟知してて、幻想を抱く余地とかもねえし」やれやれ、と楽しげに頭を振る。「つか、平野はマジでわかってねえのなー。一に、結婚がなんなのかっつうとそれは契約だ。二に、結婚する権利はすなわち離婚する権利だ。だろ?」
「まあ、実質的にはそうだな」
生まれてくるのは死ぬためだ、的な響きがあるのはさておき、そうだな。
「だろおお? 同性婚が可能になった暁には離婚に至るケース群が叩かれるだろうが、異性婚でも同性婚でも離婚が発生すんのは当然なんだよなあ。そこで離婚率に有意な差が出るとしたら、それは主に子の有無か賃金格差のせいだから、多様な家族を認めるとか男女同一賃金を実現するとかで解消しろ。離婚は権利だ。それが嫌だってんなら婚姻制度を解体しろ。同性婚の問題はそのまま婚姻制度の問題なのだヴァカどもめっ!!」
いや、誰に言ってるんだよ。思いながらも俺は自由に語らせる。特に異論はないし、こいつの飛躍しがちな暴走を酒のツマミにするのが俺は好きなのだ。
「ハッ、そんなに偽装結婚が気になるんなら異性婚においてもせいぜい気にしとけってのな。なんならお前らの結婚が偽装じゃない証拠とやらを出せ。養子縁組で充分だとか抜かすならお前らもそうしろ。とはいえ、国民の家族観がどうたら気にしてる連中がどうして養子縁組のハックみたいなやり方を推奨すんだァ?」
だから誰に言ってるんだよ。半笑いで俺はビールを飲む。「すっきりしたか?」と軽く訊いてから、「ま、子育ての予定がない俺らはどのみち、フリーライドだのなんだの言われるだろうけどな」なんとなくそう言い足すと、そこで思わぬ返しがあった。
「まあ、言うて俺としては子育てするっつう選択もやぶさかじゃないんすけどね」
「────え」と、俺は素直に驚く。「そうなのか?」
「あくまでも気持ちとしては、な」
実際にそうしたいって話じゃないから安心しろや、と笑う。
「ただ、代理母ってやつには俺はノれねえし、そもそも血縁のアンチだからそれこそ養子ってことにはなるだろうけどさ。特にこの国じゃ、我が子を成すことなんかより、既に生まれてきちまった子供らにマシな環境を提供することのが大事と思うしなあ……」
それはそうだな、と俺はうべなった。あくまで仮定の話として想像しつつ、「ただその場合、日本の外で育ててやった方がなお良しって気は大いにするが」
まあなあ……、と視線を落とし、「そいつは悲しき正論だよ、南郷。もし仮に俺らみたいなのが子育てをするならフランスあたりかと思ってたが──そういやスペインにも新しく家族法ができたんだっけか?」河北はスペイン風オムレツにナイフを入れる。
俺は、おぼろな記憶を探った。「あー、うん。だったと思う」スペインの同性婚導入は二〇〇五年であるから、その頃に生まれた子たちが大人となり、当然、社会全体の意識も大きく変わっている頃合いだ。「ただまあ、排外主義や右傾化なんかはどこもそこそこ深刻っぽいけども」
うへえ、と河北の顔が歪んだ。「理想的な場所なんてそうそうないってことだわな」そう嘆いたのちフッと真顔になり、「とはいえ、ファッキン・ヘル・ジャパンよりは確実にマシだろうし、こんな状況で生まれてくる子供らはやっぱどうにも可哀想だが」
「まあ、それは、だよなあ…………」
しんみりしたムードが俺らの間に横たわった。どちらもクソな家庭で育ったクチで、俺らが生き残るのも断じてラクではなかったわけだが、これから先は過酷さのフェーズがさらに厳しいものに変わってゆくだろう。
それに────結局のところ俺らはとんでもなく幸運だったのだ。唯一無二の腐れ縁、そういう相手がずっといて、なんだかんだ支え合いながらやってこれたうえ、この先の約束なんてものまでができるのだから。
ごほん、と空咳をひとつ。そこで俺はさりげなく居住まいを直した。
「あー、というか。俺らは完全に前提をすっ飛ばしてるが、正式な確認がまだだよな」
「ん?」河北が小首を捻った。ややあって膝を打つ。「ああ、十年前の戯けた約束を果たすかどうか、ってハナシな」
「そうだ」うなずく。「つまり、俺らは婚約するってことでいいんだよな?」
「うん、大丈夫ですよ」と、おかしな言い方を奴はした。「来たるその日に向けての婚約な。ってことで、このやりとりは正式な相互プロポーズだ。指輪とかの類はねえし、細かいことはこれから詰めるっつう感じにはなりますが」
「よし」俺はグラスを掲げた。「それじゃ共闘といくか、その日の獲得に向けて」
飲みかけのそれを打ち合わせる。いつもの場所で、いつも通りのノリで、奇妙な約束を──一般的には奇妙に映るであろう約束を取り交わす。個人的には割と自然な流れで、なるようになったという感覚なのだが、まあ、ささやかな感慨ぐらいはもちろんある。
それで、俺はいちおう伝えてみた。
「…………そういや、平野の奴は別れ際にひとつだけいいことを言ってたな。〝なあ、南郷。思うに、結婚にはやっぱり愛ってやつが必要なんだよ〟」
「あん?」河北の濃い眉が捩じくれた。「それのどこがいいことなんだよ? もちろんお前ならわかってるとは思うが、婚姻制度なんつうもんはだな──」
まあ待て、と俺は手で制した。平野のことばには続きがあるのだ。あいつ曰く、
「〝でも、お前らの間に愛がないとは思わない。結婚と聞いて俺がイメージするのとは違う種類の愛だろうけど〟」
一秒後。へえ、と感心する顔つきに河北はなった。「なるほど」と、素朴な声を出す。「確かにそれは悪くねえな、平野にしてはだが。ほとんど正解と言ってやってもいい」
今度は、俺らの間で軽やかな気分がふくらんだ。
「よし、やってやるか」と河北が言い、「だな」と俺はあごを引く。
やってやろう。この十年は俺らにとってはともかく、求める者にとっては途方もなく長い時間だったのだ。覚悟を決めた俺らは新たに小さな一石を投じる。何ができるかはわからないが、世の幸福の総量を増やせる方向を、どうであれ目指す────。
と、そういうわけで俺らはしれっと言い合った。
賑々しいスペインバルの喧騒の中、もういちどグラスをチンと鳴らしたのち、
「おい。愛してるぜ、ロマンティックな意味じゃねえけど」
「俺もだ、ロマンティックな意味じゃないけど」
この構図自体が充分ロマンティックだろう、と言いたがる奴もいるとは思うが、まあ、俺らとしては別になんでもいい。
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