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レヴィナスと歩く 10

レヴィナスが時間や空間をどのように捉えていたかを再度確認するために、ここ十日ほど資料を読み漁っているのだが、文章にならない。
どの資料もぼくの理解を超えたところにあるような気さえしてきた。

読んでいるときは分かっているつもりなのだが、自分の文章にする難しさを感じていた。

だが昨日、必要あってカントの『プロレゴメナ』の文章を自分の文章に転換していたら、方向が観えたように思えた。

説明は後回しにして作業結果を以下に記す。

以下がカントの原文。

 空間および時間の表象は、いずれも〔純粋〕直観にほかならない、我々が物体とその変化(運動)との経験的直観から経験的なもの、すなわち感覚に属するところのものをすべて除き去っても、なお空間と時間とはあとに残るからである。それだから空間および時間は、経験的直観の根底にア・プリオリに存する純粋直観であり、従ってまた空間および時間そのものは決して除去せられ得ないのである。

カント『プロレゴメナ』岩波文庫p71

これを、下記のようにぼくの言葉にしてみた。

 空間と時間の表れかたは、どちらも純粋な直観でしかない。
 わたしたちが物の変化に観られる経験的なものを取り去って、さらには感覚と見なされるものを除いてしまったとしても、空間と時間はなお後に残っている。
 だから空間と時間は、経験と見える直観の根底に以前から存在している。つまりア・プリオリに存在しているのだ。
 だから空間と時間は決して除去することができないのだ。

しんすけの意訳

大意がかなり把握しやすくなったのではないだろうか。
自分が考えながら意訳したものだから、そう思うのは自己満足なのかもしれない、
筆者や翻訳者の文章に頼らず、自分の文章で考えてみることが大事なのだと思う。
これについては、学生たちの反応を観るまでは断定を控えたい。

それにしても思想関係の翻訳書の文体は、あまり工夫が無いようにさえ思う。

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