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ルソー『エミール』 - しんすけの読書日記

 世界の一割の人(八億人)がこの本を手にとって、さらにその一割が書かれていることの真意をくみ取ることができたなら地球上の差別や貧困が壊滅することを、ぼくは疑わない。

 しかし『エミール』とは、いったいどんな本なのだろう。

 一般に流布された言葉に下記がある。

  健全な人間を自然に育てていく、
  それがどういうことなのかを問うたもの。


 これは間違いではないが、素直に頷くこともできない。そんな一言で言い表されないような、ルソーの苦悩も垣間見えるからである。

 エミールを育てる教師は、慣習的な教育や子育てに懐疑を抱いている。その多くが子どもをある枠に中にはめ込んで、理想型とでもいうべき人間を創ろうと目論んでいることが明らかだからだ。そしてその方法では、必ず失敗して、不健全な人間を世に送り出す結果となっている。

 それならば、子どもをどういふうに育てるのが正しいのだろうか。この本では教師の試み(ルソーの構想)が語られる。種々の方法が具体的に語られているが、一般的と言えるものは皆無と言える。それでもこの本は読む者に光明をあたえてくれる。
 なぜなら、人間を育てることにある方法がある訳はないからだ。今の今で最善と思われる試みを実現していくこと、それが育児であり教育だからだ。

 この本にはエミールに対する教育上の種々の試みが書かれている。だが、その一切が読者には役に立たない。なぜなら読者は、ここに書かれている教師ではなく、教える子どももエミールではないからだ。
 だがこう書きながらも、読者はこの教師になり、教える子どもはエミールとなり得るのである。それは読者自身が対処すべき現実に対して自分ならどうすべきかと、考えるときである。
 そうなのだ。人間を最善に育成することに、答えや定型的な処方は存在しないと言っていい。あらゆる事態に対処して解決策を求めること、その意思の力をこの本は暗示しているのである。人間を人間として育成し教育することにマニュアルは存在しない。ひたすら人間を人間として捉え、最善の方法を探ること。それが育成であり教育なのである。
 また育成や教育を捉えることも先行してはならない。人間を捉えることこそがそれに先だつのである。それは、人間を信頼する者なら、必ず理解できることなのだ。

『エミール』岩波文庫 上

 人間よ、人間的であれ。それがあなたがたの第一の義務だ。あらゆる階級の人にたいして、あらゆる年齢の人にたいして、人間に無縁でないすべてのものにたいして、人間的であれ。人間愛のないところにあなたがたにとってどんな知恵があるのか。子どもを愛するがいい。子どもの遊びを、楽しみを、その好ましい本能を、好意をもって見まもるのだ。口もとにはたえず微笑がただよい、いつもなごやかな心を失わないあの年ごろを、ときに名残り惜しく思いかえさない者があろうか。どうしてあなたがたは、あの純真な幼い者たちがたちまちに過ぎさる短い時を楽しむことをさまたげ、かれらがむだにつかうはずがない貴重な財産をつかうのをさまたげようとするのか。あなたがたにとってはふたたび帰ってこない時代、子どもたちにとっても二度とない時代、すぐに終わってしまうあの最初の時代を、なぜ、にがく苦しいことでいっぱいにしようとするのか。父親たちよ、死があなたがたの子どもを待ちかまえている時を、あなたがたは知っているのか。自然がかれらにあたえている短い時をうばいさって、あとでくやむようなことをしてはならない。子どもが生きる喜びを感じることができるようになったら、できるだけ人生を楽しませるがいい。いつ神に呼ばれても、人生を味わうこともなく死んでいくことにならないようにするがいい。

『エミール』岩波文庫 上 p.131-132

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