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しんすけの読書日記 『プロレゴメナ』
いまここで死んでしまってもおかしくない年齢になってしまったが、少しだけ気が付いた。
哲学には解答はないことを。そして哲学が終わらないことを。
十代半ばにフォイエルバッハに親しみハイネに彷徨うは、解を求めての旅だった。
メフィストフェレスの囁きを求めるような旅だった。
そして今、解が得られないのを知る。だが虚しさは生じない。哲学してきたことは疑わないから。
哲学には解答はなく、終わりもない。
プロレゴメナの終わり近くカントは書いている。
真理は経験のうちにのみ存在している。
空間における事物と事象の認識について直観の重要性を説き、ア・プリオリを定義したのは何だったのか。
カントを親しみだしたころに、最初に訪れる当惑である。
経験主義を嫌ったカントと、上記は以下に融合するのか。
だが空間における存在を経験では語ることにことはできない。存するものは私たちの経験以前に存する。
そして存しているに過ぎない。その真理を体得するには多様な経験が求められる。
だが、カントは経験のみですべてを良しとする経験主義を嫌ったのだ。
これを知ったとしても、何も回は得られない。カントの考え方の一部を観たに過ぎないからだ。
それを知っても、当惑の中で自死するものを止めることもできない。
十六歳の藤村操を自殺に導いたのは、この当惑だったのでないか。
眞相は唯だ一言にして悉す、曰く、「不可解」。
ところが私の観念論を隈なく支配しているところの原則はこうである、「およそ物「自体〕に関する認識は、単なる純粋悟性と純粋理性によるとを問わず、まったくの仮象にほかならない。真理は経験のうちにのみ存する」。
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