「社会でやってけないぞ」の呪い

「そんなんじゃ社会でやってけないぞ」「社会で生きていくには実力を身につけなければ」等は、子どもへの脅し文句として常套手段。しかし私もYouMeさんも、「社会に出てからラクになったわあ」と言い合っている。学校生活の方がよほど窮屈。社会に出たらどうにかなるから安心しな、と言いたい。

農水省元事務次官が息子を殺すという事件があった。詳しいことはわからないが、父親みたいに立派になれ、とハードル上げられていた形跡が窺える。もしその通りだとすると、子どもに示されたハードルが高すぎる気がする。そして、つまづいたが最後、「オレはもうダメだ」と絶望させてしまうような。

人生、楽しんで生きたモン勝ちだと思う。何でトップ高に行けなかったら人生終わりなんだろう?自分で楽しむためのハードル上げて楽しめなくするって、つまらない気がする。誰かより優秀だとかでないと楽しめないって、何か変じゃない?

もっともっと、目の前のことを楽しんだらよいと思う。家の庭に水道を引こうとした時のこと。向かいの農家さんが、業者の方に「手伝わせてくれ」。自分で自在に水道管引けるようにコツをつかみたいからだという。80歳にもなってのその向学心に舌を巻いた。日々、学ぶことを楽しんでらっしゃった。

その方は「わし、まだ稲を50回しか栽培したことないねん。毎回違う。同じ年なんてあらへん。毎年勉強やわ」と、分厚い観察日誌を見せていただいた。若い私の話も貪るように聞き、学ぼうとする。80歳超してもネットで情報収集。いや、すごい。そしてこんなおじいちゃんになりたい。

「荘子」に、この世で最も醜い男の話が出てくる。そして夢の中で、ありとあらゆる醜い動物の一生を経験するというフルコース。夢からさめると、隣に友人が。夢の話をした。友人が「そんな夢を見て、君はどうだったのだね」と尋ねると、その男は「それはそれで楽しませてもらったよ」。

私たちが楽しめなくなるのは、「かくあるべき」と今を比べて、今がどれだけひどいかを嘆くから。「かくあるべき」は自分の頭脳が作り出した虚構でしかないのに。
どんな状況でも楽しめるタフさを。そのためには、「かくあるべき」って、結構ジャマなんじゃないかな。

目の前のこと、ものを観察し、新しい発見、学びを楽しむ。そんな風になったら、学ぶことはとても楽しい。生涯続けられる趣味だと思う。なのに「かくあるべき」はすべてを色あせさせる。本当は目の前に瑞々しいものが実在するのに。

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