「人を動かす」より「人が動く」構造づくり

私は農業研究者だからか、大人も子どもも、トマトや微生物と同じように「どうにもしようがないもの、基本、言うことを聞いてくれないもの」と見なしている。
しかし面白いことに、自ら能動的に動くのなら、話が違ってくる。この点は、微生物もトマトも、そして大人も子どもも同じ。

私のもとに来る学生にいつも出すクイズ。「邪魔な木の切り株がある。これを微生物の力で取り除いてほしい」。こういうと、木材を分解する微生物を見つけだして、それを切り株にぶっかければ?という回答が来ることが多い。実際、学会発表でもそうしたものが多かったのも事実。しかし。

分解微生物を切り株にかけても、3日もすれば跡形もなく消えてしまう。土着微生物に駆逐されて。もちろん切り株はそのまま。分解微生物をぶっかける、ではうまくいかない。
しかしここで面白い方法がある。切り株の周りに肥料をまく。すると、切り株は数ヶ月もしないうちにボロボロになる。

なぜか。肥料には、炭素以外の養分がたっぷり含まれている。土着微生物からすれば「あと炭素さえあればパラダイスなのに」という状況。すると、切り株が炭素のカタマリなのに気がつく。「土着微生物のみんなのために、炭素を切り出してくれるヤツはいないか?」手を挙げる微生物が続出。

炭素を切り株から切り出してくれる微生物のために、他の連中は肥料から他の養分をその微生物に渡す役割を果たす。こうして土着微生物の生態系全体が切り株を分解するために動き出し、切り株は分解されてしまう、という理屈。
実は、この手法はタンカー石油漏れ事故にも使われている。

岩礁にベッタリついた石油は、洗剤で洗ってもなかなか落ちない。しかしそれに肥料をまいておくと、やがて分解して消えてしまう。これも、炭素以外の養分をたっぷり含む肥料を与えられたことで、土着微生物が一時的に「炭素欠乏」に陥り、炭素のカタマリである石油を分解するよう仕向けられたから。

分解微生物を加える、というプラスアルファな発想は、どうもうまくいかない。しかし、肥料をまくことで擬似的に「炭素欠乏症」に陥らせると、わざわざ別の菌を持ち込まなくても、土着微生物が群れをなして動き出す。自発的に、能動的に。いわば、マイナスアルファ。
こうした動きは、人間でも起きる。

兵法書「孫子」には、城攻めの方法が書かれている。それによると、城を攻めるときは完全包囲してはならず、一部逃げ道を作ることが大切、とある。
もし完全包囲してしまうと、城兵は逃げ道がないことをさとり、死に物狂いで最後まで戦うことになる。これでは城は落ちない。
しかし。

一カ所手薄なところを作っておくと、「あそこから逃げられるかも」と城兵は気弱になる。そして実際、逃げ出す。するとあっさり、城を占領できる、というもの。
この動き、アレに似てる。ダムのアリの一穴。一部逃げ道を見つけたら、そこから水が飛び出ていくアレ。

そう。水分子も、微生物も、人間も、欠乏を補おう、「虚」に向かって走ろうとする性質がある。しかも、人間の言うことを全く聞こうとしない水分子や微生物の群集さえ、自ら「虚」に向かって自発的に走り出す。私はこのコツを「選択陰圧」と呼んでいる。陰圧のところに向かって群集は動くから。

「ご飯だよ」と呼んでも食卓につかない子どもたち。今の遊びに熱中して動かない。食卓に行くということは遊びをやめること。そんなこと、子どもにとって選択肢ですらない。
そこで私は、クイズを出す。「さあ、これは一体何でしょう?」子どもは新しい遊びに飛びつく。「正解!ではこれは?」

子どもたちは新しい遊びに夢中になる。「またまた正解!今度は難しいぞ!これは?」子どもはもはや、半ば熱狂しながら大声で一斉に答えてくれる。
「大正解!今度は競走だ!誰が食卓に一番で着けるか、ようい、ドン!」
子どもたちは一斉に走り出す。自発的に、能動的に。

サッカーは、見ようによってはひどい制限のあるスポーツ。一番器用な器官である手を使っちゃダメだと言うのだから。では、そんな厳しいルールのスポーツなんか誰がやるもんか、となるかと言ったら、むしろみんなやりたがる。自ら制限の中に飛び込んで、不器用な足を動かして、楽しそう。

なぜ厳しいルールのあるサッカーをやりたがるのだろう?それは、楽しみがあるから。あえて不器用な足で蹴る、というのが、新しい発見と開拓があって楽しいから。だからあえて、足や頭しか使えないという制限も自発的に、能動的に守って、楽しみを追求する。

これは国も同じ。「人を傷つけたり泥棒したりすると牢屋に入りますよ、ルールさえ守れば働くこともでき、生活していけますよ、あなたはどうしますか?」と、法律の形でルールが定められていると、ほとんどの人はルールを自ら守る。そっちのけ方が楽しいという「構造」があるから。

どうすれば楽しく過ごせ、何をしたら楽しみを失うのかがはっきりしている構造があれば、群集であっても自発的にルールに従い、行動する、という現象を、スーザン・ストレンジという人は「構造的権力」と呼んだ。私は人間だけにあてはめない、拡張した意味にするために「構造的選択圧」と呼んでいる。

たとえば日本酒の醸造。酒造りの最初、乳酸菌を増やす工程がある。こうすると、雑菌が入っても乳酸が苦手なので活動できず、酒造りに役立つ微生物(麹や酵母)だけが元気に活動できるようになる。だから、フタをパカパカ開けて雑菌が入る中でも問題なくアルコール発酵が進む。これも「構造的選択圧」。

微生物や植物は、人間の言うことなんか聞いてくれやしない。しかし、適切な環境(構造)を整えると、微生物も植物も、自らの力で、自発的能動的に動き出す。それも一つだけでなく、群れをなして。
言うことを聞かない点では人間の子どもも大人も同じ。ならば、構造、環境を変えたなら?

虚心坦懐に観察を続けると、こちらの言うことなんか一切聞いてくれない存在でも、自ら能動的に動くときがあることに気がつく。それはどんな時なのか観察を続けると、「もしやこういう環境、構造の時にはこう動くのかな?」という仮説が湧いてくる。その環境、構造を作ってみたら、動き出す。

私たちが働きかけて動くことはない。「人を動かす」はムリ。けれど、「人が動く」環境、構造なら整えられる。私は、そうしたコツを微生物たちから学んだ。それを人間に応用して考えただけ。子どもも大人も、トマトや微生物、水分子と同じ動きをする。そんな風に考えている。

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