「当然だろ」人と「ありがとう」人

結婚する前、弟の個展に行くとギャラリーの主人(女性)が手招きしたのでそばに行くと、「あの人と結婚するの?」と聞かれた。私がうなづくと「女はね、ありがとうと言われるとどこまでも頑張れる生き物なの。だから当たり前と思わずにありがとう、って言わなきゃダメよ」とアドバイスを頂いた。

これは大事なアドバイスだと思い、結婚してからも「ありがとう」を連発した。実際、ありがたかった。それまで一人暮らしで洗濯から掃除から食事から、すべて自分でやらなきゃいけなかったのに、やってくれる人がいるって本当に有り難い。で、「ありがとう」とその都度言ってると、

本当にものすごくよくしてくれるので、もう感謝感激アメアラレ。結婚して十年以上になるけど、今も大変よくしてくれる。今日も出張なのだけど、朝食も昼飯も食べるヒマがないだろうと見越してオニギリとお茶を用意してくれた。必要であらば駅までクルマで送迎してくれる。本当に有り難い。

これがどれだけ有り難いかというと、新婚当初、私が飲み会に参加して、YouMeさんがクルマで送迎してくれるのを見た複数の先輩が「今のうちだけだよ、そんなに優しくしてくれるのは」と言っていたこと。先輩たちは自分でなんとか帰宅する算段をつけねばならなかった。私もそうなると覚悟していた。

ところが結婚して十数年になる今も、私が飲み会に参加すると、クルマで送迎してくれる。出張と聞けばクルマで送迎してくれる。帰宅したら私の好きなくだものを買っておいてくれる。いろんな配慮を私にしてくれる。先輩の予言が外れたわけで、これを「有り難い」と言わずしてなんと言おう。

言い古されたことではあるけれど、「ありがとう」という言葉は「有り難い」からきているという。当たり前では決して起きないことが起きた、奇跡のような好意を私に向けてくれた、という「驚き」の言葉、それが「ありがとう」なのだと思う。

これに対し、「ありがとう」さえも言わないということは、相手の好意を当たり前とみなしているということ。それをするのは当然の義務であり、相手はそれを果たしてるに過ぎないから感謝する必要はない、とみなしているということ。いわば相手を奴隷とみなしていると言って過言ではないように思う。

家族に限らず、いろんな組織がきしみ始めるのはこの「当然とみなす」態度から発しているように思う。「それはお前の仕事だろ?お前がやるのは当たり前だろ?」という態度をとる人がいると、その人の奴隷にされた気分で嫌になる。少なくともその人のためになど決して動きたくなくなる。

すると、またしても「そういう人」は「これはアイツの仕事なのにキチンと果たそうとしない、サボリ魔だ」とこき下ろす。ますますそんな人のためになんか動きたくなくなる。悪循環。「ありがとう」ではなく「当然だろ」と考える人の周りは、パフォーマンスの悪い人だらけになる。

こういう「当然だろ」人はしばしば、周囲のパフォーマンスの悪さを見て「俺だけが能動的に仕事をし、キチンと職責を果たす、有能な人間」であると自分に酔ってる人が多い。しかし、その人の言動が周囲のパフォーマンスを悪化させているのだということにどうも気づかないらしい。

とある水泳選手が、優勝しオリンピックに出場する権利があるはずなのに代表に選ばれず、「選考がおかしい」と異議を唱えたことがあった。このとき、なぜ選考から外したかというと、その選手が他の選手を罵倒し、パフォーマンスを悪くするからだという話しがあった。

これでオリンピックの成績が散々であれば、選考委員会はものすごいバッシングを受けるところだったろう。ところがその選手を外したその年、水泳選手たちはメダルラッシュ!それまでは、出してもらえなかったその選手がたった一人、かろうじて入賞できるのが精一杯だったのに。

どうやらその選手が、自分よりよい成績を出しそうな選手がいたら罵倒したりやる気を削ぐようなことを言って、パフォーマンスを下げることをしている、というウワサはほんとうであったらしいことが、その突然とも思える選手たちの活躍から見えてきた。

世の中には、自分の有能さを際立たせるために周囲を下げ、自分ひとりだけが頑張る悲劇のヒーローを気取る人がいる。非常に残念なことに、その選手はそうした一人だった可能性がある。

上は極端な例かもしれないが、「当然だろ」人は、無意識のうちに「ありがとうなどと感謝せず、それをするのは当然だと言い続ければ周りのパフォーマンスは悪化し、結果として自分の優秀さ、勤勉さ、努力が際立ち、上の人から認められやすくなる」ことを直感的に見抜き、その行為を選択してるのかも。

「あなたは頑張ってるのに、周りがそれでは大変だねえ」と、同情さえ得られる。こんなうまみのある境遇は手放せない、と思ってしまうのかも。
もう一つ、極端な例を紹介すると、これがまさに。「代理ミュンヒハウゼン症候群」の究極の形かも。
https://gendai.media/articles/-/133520?page=1&imp=0

これらの例は極端に過ぎるかもしれない。しかし「自分ひとりだけが頑張る悲劇のヒーロー、ヒロイン」という情景に憧れる心理は、誰しも少しは潜む心理なのだと思う。そのために周囲を下げ、それによって自分の評価を上げようとしたくなる心理は、誰にでもあるものだと思う。

問題は、それを学習によって乗り越えることができるかどうか。私はYouMeさんのパフォーマンスに心底驚き、感謝の毎日になった経験から、「こりゃ『ありがとう』を出し惜しみするほうがおかしいわな」と思うようになり、職場でも「ありがとう」を連発するようになった。すると。

スタッフのパフォーマンスが高い、高い!私がろくな指示を出せていないのに、私の認識不足を補っておき、「これではうまくいかないと気がついたのでこうしてみましたが、それでよかったでしょうか」と、確認してくれる。申し分のない対応!「よく気づいてくれました!ありがとうございます!」の毎日。

職場に、全然働かないことで有名なひとがいた。その人は、本来職務として与えられている当然の仕事さえこなさないということで、評判だった。その人が私の仕事の補佐に回ることに。ところがその人、私に関する仕事だと動く、動く!先の先を読んで準備を済ませてくれる!

私は荷物を運ぶ際、その人が荷物を一緒に運んでくれるのを見て「あー、助かります!ありがとうございます!一人で運んでたらどれだけ時間かかっていたことか!」そこからその人は「何か次にしてほしいことはないか?」と探して回るほど、積極的に動いてくれるようになった。

どうもこの人は、「当たり前だろ」人のそばにい過ぎて、「ありがとう」に飢えていただけらしい。私が当たり前と考えず、「もしこれを全部自分一人でやらなきゃいけないことを考えたら」をゼロベースにして、そこから少しでも助かったなら「有り難い!」と思い、「ありがとうこざいます」と言うと、

その人本来の能動性を取り戻し、こちらがお願いする以上のパフォーマンスを発揮するようになったらしい。
「当然だろ」姿勢は、どうも人間を毒する作用が強いらしい。相手を奴隷になったかのような気分にさせ、頑張りたくなくなるように仕向ける力が強い。

もしリーダーだけが光り輝き、周囲が平凡、ないし見劣りする存在に見えたら、そのリーダーを抜擢することは要注意だと思う。特にそのリーダーが、周囲の怠惰さ、能力の低さを嘆いていたら、その人は「当然だろ」人であり、周囲のパフォーマンスを下げている張本人の可能性がある。

それよりは「いやいや、私じゃなくてスタッフのみんなが頑張ってくれてるからです。私は何にもしていません」と部下のやる気の高さとパフォーマンスの高さを称賛し、自分のことを特に持ち上げようともしない人は、「ありがとう」人の可能性がある。こうした人が組織の上に立つと。

組織全体が活性化していくように思う。まるで劉備のために、孔明や関羽、張飛、趙雲などの傑物が活躍したのと同じように。
「三国志」を読むと、劉備がなぜリーダーでいられるのか、若い頃の私には今ひとつ不思議だった。力は関羽や張飛、趙雲の方が抜群。知力は孔明がはるかに上。でも劉備は。

腕力についても知力についてもパッとしない。なのに英雄豪傑たちが劉備に付き従ったのはなぜだろう?それは、劉備が「ありがとう」人だったからではないか。部下の働きを当然視せず、奇跡のことのように驚き、喜んでいたからではないか。

人間はどうやら、自分の好意を当たり前と見なさず、奇跡のように驚き、喜んでくれる人、つまり「ありがとう(有難う)」と言ってくれる人がいると、ますますハッスルしたくなる生き物であるらしい。自分だけでなく、周囲も楽しくしたい人は、自然と「ありがとう」人になるのでは。

「当然だろ」人は、どこかで踏み外してしまったのかもしれない。つい自分のことを高く評価してほしいという気持ちが先行したり、相手に期待をし過ぎて、その期待に達しないパフォーマンスにイライラしたりして、事態が悪循環する方向に行くのが習い性になってしまったのかも。

でも、周囲を下げることで自分の評価を高めようとするのは、暗い感情のように思える。楽しくなさそう。楽しくない中でかろうじて自分を慰めるマスタベーションのような行為なのかもしれない。

しかし、もっと楽しく、明るいやり方があることに、ぜひ気づいていただきたい。「ありがとう」人になることは、あらゆることを好転させる大きな力になるように思う。何より楽しい!嬉しい!みんながよくしてくれるようになるのだから。みなさん、「ありがとう」人を目指してみてはいかがだろうか。

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