助長ではなく環境を整えること

私は、子育ては朝顔に棒の一本を添えるようなものだと考えている。あくまで育つ力は朝顔自体がもつ力。もし無理やり伸ばそうとしたら、茎が折れたり根が切れたりする。伸びる力は朝顔自身が持っていると信じ、祈るしかない。こちらができるのは、適切な位置に適切な棒を添えること。

棒が遠すぎても朝顔は巻き付けない。近すぎて根を潰されても困る。朝顔自身が棒を認知し、巻きつくことを祈って、適当な距離に棒を挿すしかない。
棒は太すぎても細すぎてもダメ。低すぎてもダメ、高すぎれば倒れやすくなる。朝顔の巻き付きやすい、思う存分育つことのできる棒を用意する必要がある。

私は「驚く」ことによって、子どもが能動的になることを重視してはいる。けれど、自主性に任せればほっとけばよい、とは考えていない。棒を添えない朝顔は、地面でトグロを巻いて腐ってしまう。大人の適切な関与は必要。
ただし、大人の過干渉は避けるべきだと考えている。

「助長」という言葉がある。隣の畑の苗より成長が遅いことに腹を立て、成長を促すつもりですべての苗を上に引っ張ったら、根が切れて翌日には枯れてしまった、という話。植物の成長する力を信じずに、成長さえも大人の関与で伸ばそうとした場合、意欲という名の根が切れる。

だから、過干渉は避けた方がよい。では親や大人の側は何もすることがないのかというと、さにあらず。朝顔に棒を挿すだけでなく、やることはいっぱい。植物の成長には水、肥料、光、二酸化炭素が必要。耕作者は、それらをふんだんに利用できる環境を整える必要がある。

しかしこれも個性による。レンコンのように水浸しのところで育つ植物をウネの上に植えたら育たない。キャベツを水田に植えたら育たない。その作物に適した環境を用意することが耕作者には求められる。個性を無視しては育てられない。

環境をうまく調整し、個性にも適した形にして、あとは思う存分成長してもらう。でも、何処まで成長するかは苗次第。耕作者にできることは、環境を整えること以外は、祈ること。

子どもの能動性を重視しているからといって、大人の関与がなくて構わないなんて私は思わない。しかし大人の関与が必要だからといって、子どもの意欲の根を切るような過干渉を肯定することはできない。大切なことは、子どもが楽しそうにのびのびと成長すること。そのために何ができるか、ということ。

それには、よく観察する必要がある。雨の日に水をやり、晴れの日に水をやらないみたいなことは、観察していないから起きてしまう。よく観察し、いま、何が必要なのかを考え、環境を整えることで改善できるならそれをする。でも、成長し、事態を打開する力は、作物(子ども)そのもののもつ力。

祈るしかできなかったのに、切り抜けてくれた!それを驚かずにはいられない。子どもはそれに気がつき、意欲を増し、さらに能動的になり、成長が促進される。大人はその旺盛な成長に合わせた環境づくりを行う。
大人のなすべきことは、助長することではなく、環境を整えることだと思う。

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