情報リテラシー 考

「情報リテラシー」考。
昨日のウェブ飲み会のテーマ。終了後、横で聞いてたYouMeさんが「人間、見たいものしか見えないし、見えるようにしか見えないんだから、真実は一つだと考えること自体に無理があるんじゃない?」と、目からウロコな意見。

凶悪犯罪を犯して、世間的には極悪人であっても、家族にとっては心優しい人であったり。権力欲の甚だしい極悪政治家に思われていても、過去の失敗を不問にしてチャンスをくれた人からすれば大恩人だったり。
極端な例かもしれないけど、立場が違うと見え方が違う。

「コップに入った水」という、目の前に一つしかない事実でも、人によって受けとめ方は様々。「飲みたい!おいしそう!」「水道水かな?塩素臭そう」「このコップ、きれいだなあ」「あ!アイツの家で見たコップだ。金持ち趣味のイヤなコップだ」
受け取り方は様々。

私はスイカが大好物だけど、苦手にする弟は「キュウリのニオイがする」という。私は昔、トマトが苦手でゼリー部分が特にダメだったけど、好きな人はゼリーがあるからうまいんじゃないか、という。

私はコンクリートの上で砂を掃く音が苦手だけど、多くの人は平気。私は黒板に爪を立てる音は平気だけど、多くの人が苦手。何が好きで何が嫌いかは、人によって様々。見え方は人によって異なる。なのに「情報リテラシー」という言葉を使う場合は。

真実は一つであり、その唯一の真実にたどり着けるかは、正しい情報を見抜き、正しく理解する能力が必要なのだ、というニュアンスがプンプンする。情報リテラシーという言葉は、しばしば、「自分にはそれがあるけど多くの人にはそれがない」と言いたいときに使われている気がする。

私たちは誰もが、情報の一面しか捉えられない。私のお気に入りの話で、「群盲象を撫でる」がある。目の見えない人がめいめいに象を触り、ある人はしっぽを握って「呼び鈴のヒモだ」耳を触って「カーテンだ」鼻を抱えた人は「大きな楽器だ」牙を握った人は「武器だ」。

自分の触ったものは「事実」だから、みんな自信がある。「そんなはずはない!お前おかしい!」と罵り合い。この状態、「情報リテラシーがない」と相手を愚弄している状態とそっくり。
ただしこの話には続きがある。「なあ、俺たち、同じものを触ってるはずなんだよな?」と誰かが言って、ハッとする。

今度は、相手の言ったことを否定せずに、よく聞くようにする。そして一人一人が、どう感じるかを丁寧に報告。「呼び鈴のヒモと思ったの、時々動く。先に毛が生えてる」「カーテンも動く。このカーテン、胸の高さまでしかない」「この尖った武器のようなもの、大きな構造物につながってる」

こうしたみんなの「一面的な」報告を聞いてみんなで「多面的に」考えた結果、「もしかして、これがウワサに聞くゾウじゃないか?」という事実にたどり着く。「群盲象を撫でる」は、まさに科学が行っている作業そのもの。科学は、「一面的にしか観察できない」という限界を心得た上で観察する。

例えば、遺伝子の本体であるDNAは、テレビなどではらせん状のイラストで紹介されるけど、実は、誰もはっきり見たというような、直接的証拠はなかった(最近、最新の電子顕微鏡だと見えたらしいけど)。らせん状だと理解すると納得しやすい「状況証拠」がたくさん積み重なっているだけ。あれは推定の姿。科学はそんなのばっかり。

私たちは物事を一面的にしか捉えられない。一人の人間がいくら「情報リテラシー」を磨いたところで、それはその人の一面的な見方を強化するだけに終わることが多い。なぜなら、人間は見たいものしか見えないし、見たいようにしか見えないから。

ただし、自分は「見たいものしか見えないし、見たいようにしか見えない」ということを皆が自覚し、自分の見え方は一面的である、と認識し、その認識を共有できたとき、「群盲象を撫でる」がゾウを見破ったのと同じ「衆知」システムが作動する。

人類の面白いところ、科学の面白いところは、一人一人見え方、感じ方が違うことを「利用して」、一面的な見え方をたくさん集めて「多面的」に見ることで、見えにくい事実、捉えがたい事実を浮き彫りにすることが可能になること。

たとえば重力は、まだ誰もはっきり見てない。リンゴは地面に落ちるだけで、重力は目に見えない。しかしリンゴは常に落ちる、という「一面」、地球は太陽の周りを回ってるという「一面」、月も地球の周りを回ってるという「一面」、これらを総合すると、目に見えない「重力」が浮き彫りになる。

酸素をはっきり見たことがある人は、液体酸素を作れるまで、いなかった。透明で空気と区別がつかない。けれどこれがあると物がよく燃えるという「一面」、植物が吐き出しているらしいという「一面」、水を電気分解すると電極の片方で泡になって出てくる「一面」、これらを総合して、目に見えない酸素の存在を確信している。

私たちは、自分が体験したことのない「一面」を他の人から共有してもらって、初めてこの世界を理解できている。ひとりの人間は、知のネットワークの結節点の一つでしかない。ネットワークを総合して初めて知を獲得するという、非常に変わった生物種。

だから、自分にだけ「情報リテラシー」があると自認し、他の人にはないとあげつらうのは、いわば神経細胞が互いに「アイツはおかしい」と脳内で罵りあっているような滑稽さがある。
私たちは一個の神経細胞でしかなく、皆の力を合わせなければ無力だとの「分を知る」必要がある。

というわけで、私は「情報リテラシー」という言葉がなんとなく気にくわない。自分も一面的にしか見えない、誰もが一面的にしか見えない。でも幸い、みんな見え方が違う。違うから面白い。見え方が違うことを面白がり、互いに耳を傾け合うとき、「衆知」システムは作動する。「群盲象を撫でる」ように。

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