「いじり」は笑いを提供しているのではない、嗤いで人々を支配したいだけだ

ビートたけしに始まり、ダウンタウンが引き継いだ「いじり」という手法は、集団を「嗤(わら)い」で支配できるということを子どもたちに示してしまった面があるように思う。
頭の回転がよく、言葉巧みな強者は、特定の人間を「いじられキャラ」に仕立てることで嗤いを生む。この場合、

いじられキャラと目された人間は、他のポジションを要望する自由を奪われる。もし拒否すれば、「笑いがわかってない」「せっかくお前が主人公になれるようにしてやったのに」と恩着せがましさを見せながら相手を罵り、それでも拒否するなら集団から排除する。「おもんねーヤツ」とレッテルを貼って。

こうした強者は空気を支配するのがうまい。大学のサークルの新歓コンパで、そうした先輩がいた。新人に自己紹介をさせたあと、ビールを何杯も飲ませて酔い潰させていた。さて、私の番。ビールを飲み干し、コップを頭の上で逆さにし、「あー、うまかった」と言ってそのまま退席した。

「もしここで一気飲みコールしてみろ、この場の空気を全部ぶち壊しにしてやる」という容赦ない空気をみなぎらせながら。するとその先輩は、空気の支配権が私に一時的にでも奪われるのを警戒したのだろう、何も言わずに私が退席するままにスルーした。

まあでも、普通の人間は「座の空気」を乱してはいけない、という変な呪いにかかることが多い。それ以外の道をとることができなくなってしまう。なぜか。そうすることでしか座の笑いの空気を維持できないような空間に、強者が設計しているからだ。

ビートたけしから始まり、ダウンタウンが引き継いだ「いじり」という手法は、人々が笑ってるその空気をぶち壊しにしてはいけない、と、自らを縛ってしまう日本人の特性をうまく利用したもの。この手法をマスターした人間は、笑い(嗤い)でもって座を支配することができる。

みんなが楽しそうにしているその雰囲気をぶち壊しにしてはいけない、という、一種の優しさ、配慮からくる心の動きを、狡猾に利用している。だから、こうした手法を利用する人間は、笑顔を提供したいわけではない、「嗤い」でもって座を支配したいだけだ。支配欲からだと言ってよい。

今後、私達は、「いじり」でもって座を支配しようとする人間がいたら、「あんたは笑いを提供しているのではない、嗤いでもって座を支配したいだけの、支配欲からきているだけなのだ」と、常識をスライドさせればよいのだと思う。

もし誰かの劣等感をいじり、嗤いをとろうとする人間がいたら、「お前はこの場を支配したいだけだろ」とツッコミを入れたらよい。支配の構造を端的にあばき、その目論見を破壊する。そうすることで、いじりというイジメへの対抗馬を育てるとよいように思う。

いじりは笑いを提供しているのではなく、嗤いでもって座の支配者になりたいだけ。そんな支配欲を満たしてやる必要はない。そうした傲慢な支配者を引きずり下ろす革命的手法を、そろそろ開発してもよいだろう。

補足1 
ここで「いじり」は、強者が弱者の劣等感をえぐり、いたぶることで嗤う行為を指している。相互にからかい合う「じゃれる」とは区別している。「いじり」を拡大解釈し、いじりを救済しようとする人がいるけど、それはクソとミソを同一視してクソを救済しようとする行為。救済はミソだけでいい。

補足2
いじりがなくなれば笑いがなくなるとまで考える人がいるようなので補足。
日露戦争で日本軍総崩れの危機に陥り、首脳部に緊張が走ってる最中、大将の大山巌が昼寝から起きてきた体で「どこかで戦でも始まりましたか」とトボけた発言。これで一気に緊張が和らぎ、思考が柔軟に。危機を脱した。

笑いはもっと多様。ベルグソンが「笑い」という本を一冊書き上げるくらいに。また、古典落語を見ても笑いは非常に多様性がある。
なのに「嗤い」だけを笑いと考えてしまう人の、意外なほどの多さよ。若い世代がそう思い込んでしまうほど、今のお笑いはひどかったのだと思う。

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