「愛情」がよくわからない

子育てではよく「愛情をもって育てる」と言われる。そのせいか、「愛情深く育てればいいんですよね」と尋ねられることが多いのだけど、こう聞かれると私は答えに窮する。愛情というのが曖昧過ぎて、私にはよく分からない言葉だから。

孫が可愛くて、まさに目に入れても痛くないといった可愛がりようのおばあちゃんがいた。おばあちゃんは、孫が五歳になってもスプーンで食べさせて上げ、着替えもして上げた。結果、その子は心ここにあらずの青年に育った。自分でやってみたいこともみんなやられて、心のお花畑に逃げるしかなかった。

そのおばあちゃんは、世間一般で言うところの愛情は間違いなくあった。深すぎるくらい。その愛情に溺れて、その子どもは能動性を奪われた。危険だといって何もさせてもらえず、すべておばあちゃんが段取りしてしまうため、心のお花畑だけが自由にできる空間になってしまった。

ある母親は、子どもが泣いて帰ってきて、同級生に叩かれたと聞いたとき、教育委員会に怒鳴り込み、校長や担任をクビにしろと大騒ぎを起こした。実は、ちょっかいを最初に出したのは子どもの方だったのだが、事情をよく聞かずに「息子を守るため」大いに大騒ぎし、恥ずかしくなったその子は不登校に。

その母親は、子どもを守ろうとしての愛情があったと思う。しかしその愛情ゆえに、あるいは愛情を免罪符と考える故に極端なことをし、結果として子どもを追いつめ、学校に行けなくしてしまった。愛情をきっかけにして、子どもをつらい立場に追いやってしまったとも言える。

私は概して冷たい人間だと思う。子どもの頃、家にネコがいたのだが、ろくに世話をしなかった。それに対して弟は、お小遣いで猫缶買ってきたり、抱いたり撫でてやったりと、実によく可愛がっていた。愛情は間違いなく弟の方が上だった。なのにそのネコの場合、なぜか私になついた。

不思議に思って改めて弟の様子を観察すると、ネコが喜ぶ顔を見たくて、帰ってきたらすぐに猫缶食べさせようと、寝ているのを抱き起こして「さあ食べろ」。押し入れの奥に逃げて寝てるのを引っ張り出して抱いたりなでたり。それに対して私は。

大して愛情感じてないから撫でもしない。抱きもしない。エサもやらない。ただし、腹が減ったと鳴いて近づいてきたら仕方なくエサを上げた。撫でてほしいと近づいてきたら仕方なく撫でてやった。膝に乗ってきたら仕方なくそのままにしておいた。ネコが望んだときにしかやらないでいたら、なついた。

明らかに愛情がある弟より、愛情が薄い私にネコがなついた皮肉。「愛情」とは何か、をうんぬんするよりも、ネコにとってどうだったのかを分析した方がよいのかもしれない。たぶん、ネコは自分の感情や状況をきちんと把握し、それに応じた対応をしてほしかったのだのだろう。

愛情は、相手の状況や感情を無視することを免責してくれるものではないらしい。「あなたのことを思ってやったのに」と怒る人がいる。自分が愛情からして上げたことに感謝がない、と怒る人がいる。しかし愛情さえあれば相手の状況は無視してよい、という免罪符になるとは限らないらしい。

昔、中国で反日デモが盛んに行われた時、店舗を破壊するなどの過激な行動も見られた。その時に掲げられていたプラカードには「愛国無罪」。愛国心から出た行動なら、たとえ暴力行為でも許されるべき、という考えが反映された文言のように思われる。

しかしもし愛と言うものがあるとするなら、愛は許すものであって、許される為の免罪符と考えるのはおかしい気がする。なのに愛や愛情はしばしば、自分の雑な言動を許してもらうため、あるいは許さないとお前は悪人、と脅すためのツールとして使われることがある。

ただ、確かに自分に好意を持ってくれる人には判断が甘くなる、という心の動きはある。「まあ、好意を抱いてくれてるのにむげにしちゃ悪いかな」。この心理につけ込む人が世の中にもいるのは確か。愛情を抱いてくれる人には甘くなる、それを拒否しづらい、という不思議な心理。

私は、愛とか愛情とかいう、人によってイメージが異なる言葉を使うのはためらう。愛情はあった方がよいと思う。他方、極論すれば愛情がなくても、子どもに適切な対応をとれるなら、子どもは育つとも考えている。適切な対応を子どもが愛情だと解釈するなら、それでよいように思う。

「適切な対応」は、必ずしも賢さを必要としないように思う。「赤毛のアン」のマシューのように、アンが嬉しそうなら自分も喜び、悲しそうならオロオロし、なんとか克服してほしいと祈る。子どもに先回りするのではなく、「後回り」するくらいに。

愛情は、あいにく子育てや教育の世界では、思考を停止させてしまうマジックワードになっている気がする。具体性がない。私みたいに要領の悪い人間は、もう少し解像度の高い言葉を使わないとよくわからない。

愛情という言葉は少なくとも、働きかける側の感情を示す言葉として使用しない方がよいような気がする。愛情は、受けとめる側が感じるものとしてとらえるなら、まだ間違いは少ないかもしれない。しかしやっぱりややこしいし誤解しやすいので、子育てではあまり使わないようにしたい。

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