「失敗を恐れるな」から「失敗を楽しもう」へ

ビジネス記事や教育記事なんかを読むと、「失敗を恐れるな」なんて言い草を見かけるけど、おかしいと思う。この言葉の裏メッセージは「失敗は恐いものだ、だがしかし」というもの。失敗恐がってんじゃん。恐いのに恐れるなって言語矛盾。そんな風に思う。そもそも、失敗って楽しいもんだし。

私は、危険がない限り、失敗はとても大切で、恐がるようなもんじゃないと考えている。むしろ大変興味深く、楽しいものだと考えている。成功はつまんない。だって、予想通りのことが起きただけなんだから、学びがない。失敗とは、想定してないことが起きたということ。これは新しい出会い。ワクワク。

赤ちゃんを観察していると、大変興味深い。たとえば丸や三角、四角のプラスチックを穴に通すオモチャの場合、ついつい大人は早く「正解」にたどり着けるよう教えたくなる。何せ、赤ちゃんは丸を四角の穴に入れようとしたり、三角を丸の穴に遠そうとしたり、失敗ばかりしてるから。けれど。

赤ちゃんはこの「失敗」を通じて、とても重要で大量の学びをしている。なるほど、丸のプラスチックと丸の穴は形が「相似」してる訳だけど、「相似」を真に理解するには、「相似してない場合」はどうなるのか、という膨大な学習をする必要がある。

丸のプラスチックは、もしかしたら楕円の穴なら通るかも。いや、三角の穴だっていけるかも?と、赤ちゃんは膨大な「実験」を繰り返している。丸は丸の穴しか通らないのか。よし、じゃあ四角は?丸は丸の穴だけだとしても、四角は四角の穴以外も通ったりするのでは?ひたすら実験する。熱心に。

こうして膨大な実験を繰り返した結果、「丸は丸の穴、四角は四角の穴、つまり相似した形の穴しか通らないらしい」という偉大な「発見」をする。この発見は、違う形の穴に何とか通そうとあらゆる試みを試した後でないとたどり着けない境地。赤ちゃんは相似という概念にたどり着くために失敗を重ねてる。

成功を理解するには、実は、膨大な失敗を重ねることで、成功の道の輪郭を浮かび上がらせる必要がある。失敗せずに成功だけを教えた場合、他にも方法がある気がして、うまくいくような気がして、とんでもない失敗を後々しかねない。しかも誰もフォローしようがない場面で。

だから私は、危険がないかだけ注意しながら、子どもも、職場のスタッフや学生にも、なるべく失敗してもらうことにしている。なぜそれをしてはいけないのかは、体験してみないとわからない。失敗を重ねるから、成功の輪郭が浮かび上がる。そう思っている。だから失敗は面白い。

危険な失敗もなるべく疑似体験してもらう。機械の取り扱いの際、「いまここでこのボタンを圧すとどうなると思います?」とニタニタすると、だいたい皆さん警戒する。そして、仮説を述べてもらう。いくつか仮説を述べてもらった後、「実はね」と、起きる危険を説明し、疑似体験してもらう。

幼児はストーブの熱さを知らないから、平気で手を伸ばして触れようとする。このとき、手を引くのではなく、むしろ手首を握り、「触ってみる?熱いよー、痛いよー』と、ストーブに近づけると、全力で手を引っ込め、以後、近づかなくなる。異様な空気を感じ、これは危険なものらしい、と感じるようだ。

針や刃物もそう。触ろうとするのを「危ない!」と避けさせるより、最初のうちに、幼児の手首を握り、「針の先、ちょっと刺してみようか?痛いよ~」と、普段と違う雰囲気かもして近づけると、刺す必要もなく、以後、慎重に近づかなくなる。危険はむしろ、大人が意図的に近づけると避けるようになる。

そうした危険以外の失敗は、なるべく楽しんだ方がよいように思う。トンカチでクギを打つには、さんざんひん曲がる失敗を重ねた方がよい。クギをまっすぐ打つというのは、実に狭い隘路。それをたどるには、まず膨大な失敗を重ねる必要がある。

トンカチの軌道は円弧。その円弧の漸近線がクギを打つべき直線と一致したとき、クギをまっすぐ打てることになる。しかしこれを体験的に理解するには、膨大な失敗を重ねる必要がある。円弧の漸近線が少しでも斜めだと、クギはその方向に歪むのだ、という失敗を重ねないと、「まっすぐ」がわからない。

また、トンカチの重心がクギに向かってまっすぐ落ちていかないと、クギはまっすぐ刺さらない、ということを、膨大な失敗を重ねることで、成功するときの輪郭を浮かび上がらせないと、理解できない。トンカチでクギを打つ体験は、円の漸近線を理解する上で重要な基礎になる。

キャッチボールをする際、ボールを投げる手の軌道は、円。円のどこで手放すかにより、飛んでいくボールの方角が決まる。膨大な失敗を重ねることで、ボールは手の描く円弧の漸近線の方向に飛んでいく、ということに気がつく。

コントロールよく、ボールをまっすぐに投げるには、体幹を前に移しながら投げることで、手の描く弧が楕円を描くようにし、ちょうど運動場のトラックのように直線部分ができるような手の軌道にすると、まっすぐな漸近線を確保しやすい。そうしたことも、失敗を重ねることで気がつく。

失敗とは、新しい現象との出会いを楽しめる素晴らしいもの。必ず発見がある。だからムチャクチャ面白い。最初から成功したらつまんない。失敗は、膨大なデータベースを作るための大切な体験。こんなの、楽しまなきゃ損。

モノを握るロボットの学習では、膨大な失敗をかさねさせることが大切なのだという。いろんな形の物をつかむには、たくさんの失敗を重ねて、うまくいくときの輪郭を浮かび上がらせる必要がある。人工知能による学習では、成功以外の、失敗の学習が不可欠だという。なのに。

小学校に入ってからの学習は、正解しか教えようとしない。失敗とは「間違い」であり、恐いもの、恐れるべきもの、避けるべきものとして叩き込む。失敗を恐れるようになる原因は、促成で成功をコピペしようとする学習スタイルに問題があるのかもしれない。

しかし、人工知能の学習においても失敗を重ねることがいかに重要かが明らかにされている今、失敗を楽しまない学習法が果たしてよいのかどうか、見直す必要がある。それより、失敗はなるべく楽しんだ方がよいのではないだろうか。失敗は創造の宝庫でもあるのだから。

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