蔵・修・息・游 言葉の海に溺れると「蔵」で止まってしまう

私は、学習のステップに「蔵・修・息・游」があると考えている。ともかく必要な手続きを頭で理解しようと努める段階「蔵」。ひたすら繰り返し練習する「修」。呼吸のように無意識に使いこなせる技術に仕上げた「息」。持てる技術でいろいろ試みて遊ぶ「游」。

このところつぶやいてる「物分かりの悪い人」は、「蔵」の段階で渋滞し、パニックになっていることが多い。「言葉に溺れている」というか。
私の見るところ、「物分かりの悪い人」は決して頭は悪くないが、他人、たとえば親に先回りされすぎて、その顔色を窺うことに忙しい人が多いように思う。

何か失敗しないかといつもビクビクし、何か言われたら「ああ!すみません!」とパニックになり、手元がおろそかになり、注意した人の表情や感情にすべてのエネルギーを集中させる。自分の課題にではなく「この人を怒らせないようにするには」ということばかり考えて、作業に集中できない。

そういう人は「そうじゃないって言ってるだろう!こうだって言ったのを聞いていないのか!」と叱られた体験が早くから積み重なっている気がする。この人たちは聞いていないのではない。むしろ聞きすぎて、言葉の表面に囚われすぎて、「蔵」の段階で渋滞し、ウロウロしている。

本当なら、注意された言葉を脇に置き、「さて、この課題はどうなってるのか、自分の目で確かめてみよう」と、落ち着いて観察するのが吉。このとき、言葉以上に「体の声」が重要。身体感覚が訴えてくる情報をもとに「あ、ここを校すればこうなるのか」を「発見」する。

あとはその発見に基づき、繰り返しその作業を行って、言葉でいちいち表現しなくても体が勝手に動くようになるまで練習を繰り返す。これが「修」。「物分かりの良い人」は、いい意味で注意してくる人の言葉を聞き流し、せいぜい着眼点の参考にする程度にとどめ、自分の目で観察するようにしている。

しかし「物分かりの悪い人」は運が悪いことに、言葉をかけまくる人に出逢ってしまっているらしい。手元に集中し、観察するゆとりも与えられずに、「見ているからやってご覧」と、監視の中で作業させられる。そばで見られてると、その人がさっき言ってた言葉がグルグル。その人の視線もアイタタタ。

手元の作業を冷静に監察することもできず、「体の声」に耳を傾けるゆとりも與えられず、言葉と視線にすべての精神エネルギーを持っていかれて、パニックのままに何かわけのわからんことをさせられる状態。それを見て短気を起こした人からさらに言葉のツブテがぶつけられ、もうどうしたらよいか。

私はだから、「失敗を楽しんで」と伝える。まずは失敗してはいけないという「呪い」を解かないことには、自分の目の前で起きてることを観察するするゆとりが生まれず、言葉の海に溺れるだけで終わる。だから、失敗していいんだ、それよりせっかく失敗したんだから何が起きたのか観察し、楽しもうと。

一緒に「こうするとこうなるのかあ。面白いねえ」と、各種失敗現象を一緒に観察し、気づいたことを互いに言い合い、情報を共有しているうちに、仕組みが理解できていく。何をどうしたらどうなるかが予測つくようになる。「あ、気づいちゃいました?」

「ええ、そうするとうまくいっちゃうんですよ。残念ですが、ゲームはこれでおしまいですね。それを繰り返して、練習してみてくれますか」と言って其の場を立ち去ると、私の目がないものだから、落ち着いて今の現象を思い出すことができる。同じ作業を繰り返すと、言葉でなく身体にそれが染み込む。

あとは、蔵・修・息・游の順序に進んで行くことが可能になる。
問題は、「物分かりの悪い人」は、これまで注意されすぎて、その注意の言葉の海に溺れて、観察するゆとり、「体の声」を聞くゆとりを奪われていること。これを取り戻したら、「物分かりの良い人」と違いはない。

「物分かりの良い人」がやかまし屋の言葉に馬耳東風なのは恐らく偶然ではない。他人の言葉に引きずられず、自分の目、「体の声」に忠実に動けるから蔵・修・息・游へと進むことができるのだろう。他人の言葉を聞いてしまう素直な人が、やかまし屋のもとにいると「物分かりの悪い人」になるのかも。

指導する際は、「蔵」のところで渋滞していないか、言葉の海に溺れているのではないか、指導者が気づく必要があるように思う。もしそうなら、言葉の呪縛を解き、手元を観察するゆとり、「体の声」に耳を傾ける余裕を確保できるような「構造」を用意する。それが大切なように思う。

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