教えるより、一緒に不思議がる。そして教えてもらう。

「娘が、救急車のサイレンの音が変わるのはなぜ?と聞いてきた。ドップラー効果をどうやって説明しよう?」と知人が書いてた。別の知人は「こう教えたら?」と提案していた。私は「教えなかった、一緒に『なんでだろうね?』とふしぎがっていた」と書いといた。うちの子育ては少し変わってるかも。

子どもがなんでだろう?と不思議がっていたら、私もYouMeさんも「なんでだろうね?」と不思議がっていた。自分たちも子どもの持ち合わせの知識しかないと仮定して、それで考えてみると、確かに難しい。「これは難問だぞ」と一緒に悩んでしまう。そしてたいがい、そのまま。

するとそのうち、子どもが本だかテレビだかでそれを「発見」して、「こういうことなんだって!」と教えてくれた。私は「そんなんや!へえー!しかしうまいこと説明してくれるなあ」と感心すると、子どもは得意げ。また新知識を仕入れて親を驚かしてやろう、と、学習意欲を燃やしていた。

教えることはほとんどなく、一緒に「なんでだろう?」と悩む親だったからか、うちの子どもは「なんで?教えて!」攻撃がなかった。物を知らぬ親にいかに教えてやるか、苦心していたらしい。そのせいか、特に息子は説明がどえらくうまい。わかりやすく説明する。

人間って、「出力」しようとしないと頭に入らない。教えてもらってわかったつもりになっても、うまく説明できないことはよくある。これは学習が受け身になってしまうからだろう。
私もYouMeさんも、子どもが「出力」する機会を大切にした。出力するには、説明する、教えるのが一番。

ならば、親は教えるのではなく、教えてもらう立場になるのがよいように思う。親は、子どもと同じ知識しかないと仮定して、子どもと同じように教えたり説明できたりするだろうか、と考えながら子どもの話を聞くと、「なかなかやるやん」と、驚かずにはいられなくなるように思う。

親が教えるのではなく、教えられる立場になると、子どもは勝手に学ぶようになる。そして親との会話は、学んだことを披露する場に変わる。出力する場となる。この方が学習したことがしっかり身につくように思う。

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