「第三者とのネットワーク」形成は、第三者にしかできない

関係性から考えるものの見方(社会構成主義)第6弾。今回はちょっと視点を変えて、「第三者」について。
ある時、不登校の問題に詳しいスクールカウンセラーの講演があると聞き、最新の情報を仕入れられるかも、と参加した。講演者は、70歳を超えた優しそうな男性。

ところが話を聞くにしたがって、むかっ腹立ってきた。ついに我慢しきれなくなり、「先生のお話、子どもが不登校になるのは親のせいだ、って言っているだけじゃないですか!そんなこと、誰にでも言える。すでに親御さんたちは自分を責めているのに、なんで傷に塩を塗り込むことしかしないんですか!」

しかしその後、会場の親御さんからの質問に答えるのにも、あなたの言い方が悪い、と、親御さんを責める言葉ばかり。また私は我慢ならず、「親子だけではもはや関係性が硬直して動くわけないでしょう!なぜ先生の話からは、第三者の力を借りるという話が出てこないんですか!」

講演後、非礼をわびつつ、なぜ親だけで不登校の問題を解決させようとするのか、無理がありはしませんか、と質問しにいくと、「いわゆるご近所の力ですね、でも現代では、その力を借りるのは絶望的なんです」とお答えに。私は返事をもらえたことに感謝しつつ、絶望感に囚われた。

そんな中、不登校の子どもについて相談が寄せられた。私は、うちに来たらいいよ、とその子を誘った。その子が学校の復習をしている間、私はパソコン仕事か読書をしていた。ただそれだけ。別に教えるわけでもなく、ただ同じ空間で、同じ時間を過ごしただけ。でも、それが大事だと思っていた。

子どもはいつか、自分よりも先に親が死ぬのが順序だと分かっている。それまでに赤の他人だらけの「第三者の海」に飛び込み、泳ぎ切る力を身につけなければならないことを承知している。けれど、不登校になった子は第三者との接点をほぼ失ってしまう。それが今の日本社会の大きな問題。

私はその子に、第三者でも君のことを面白がる人がいるんだよ、ということを伝えたかった。だから一緒の時間、一緒の空間を過ごすことにした。君を迎え入れてくれる人が必ずいる。だから恐れず、第三者の海に飛び込んでみてほしい、と。

親は決して第三者になれない。第三者とどう向き合い、どう付き合うかは、子ども自身が体験を通じて学んでいくしかない。そして子どもにとって、学校がほぼ唯一の訓練場になっている。第三者と関係を結ぶ訓練をする場。そして何らかの事情でそこに足を運べなくなると、第三者とつながる手段が断絶。

だから、不登校の問題は深刻化しやすくなっている。昔なら商店街があり、小さな個人商店があって、「お前、店の仕事を手伝ってくれよ」と声をかけてもらえるチャンスもあった。学校以外に第三者と触れ合える機会があった。しかし今の子どもにはそれがない。すると。

不登校はすなわち、第三者と結びつく機会をほぼすべて失うことにつながる。けれど、親御さんは第三者になりえないから、どうしようもない。この問題を解決するには、第三者にしかできない。その子に第三者がアプローチするしかない。

スクールカウンセラーや先生も第三者とはいいがたい。この人たちは仕事で僕に付き合っているだけだ、というのが子どもにも分かる。だから第三者との関係性を結ぶうえで、これらの人も無力。だから、スクールカウンセラー、学校教員、親だけでは、不登校の問題は本来解決しづらい。第三者の力が必要。

近年、サードプレイス(第三の場所)というのが注目されているのも、その点だろう。家族や学校、職場、といった場所だけではない、第三者と出会える場所。そういう場所が必要だということが、世間でも認知されつつあるということなのだろう。

大人になることを「社会に出る」という言い方をするけれど、これは、親が用意した人間関係のネットワークとは別の人的ネットワークを、子ども自身が形成してその中で生きていく、ということ。第三者とのネットワークを築いて生きていくということ。それが大人になるということだろう。

そうした「第三者とのネットワーク」について、親は無力。第三者とのネットワークは、第三者と子どもにしか作れない。だからもしスクールカウンセラーが本気で不登校の問題を改善したいなら、第三者とつながる道筋を作ることなのだと思うけれど、上記の講演者はその発想がまるでなかった。残念。

子育てとは、親である自分がいなくなっても生きていける人的ネットワークが子どもの周りに形成されるように祈ること、といえるかもしれない。そのためには、たくさんの第三者の力を借りることが必要。親にはどうしようもないことなのだから。

親は、「どうかうちの子をよろしくお願いします」と頭を下げ、子どもの友達にも、どうかいい友達でいてやってほしい、と祈ることくらいしかできない。第三者との関係性がどうやったら子どもに形成されるのか。すべて間接的にしか関われない。

だから私は、いずれ自分の子どもにもそうしてもらえるように、私自身が第三者として、可能な範囲で子どもと関わろうと思っている。親にはできない役回りを、第三者は可能。第三者にしか作れない関係性がある。私は、第三者だからこそできるかかわりを、よその子どもたちにしてやれたらと思う。

それが翻って、私の子どもたちを気にかけてくれる大人や子どもが増える契機になってくれれば、と祈る気持ち。
第三者との関係性は、第三者にしか作れない。そのことを、私たち社会はもう一度思い出す必要があるように思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?