ツイッターでの炎上を学びの契機とする

私はツイッターでよく炎上する。これまで何度謝罪を繰り返してきたか分からない。でも中にはそれでも責め続ける人がいる。謝ったら「こいつ弱っているな」とみてカサに着て、余計に攻撃の手を強めるタイプ。こうした人を、私は相手にしない。ただ、炎上するには炎上するなりの理由があると考える。

言葉にゆらぎがあるから、言葉の突き詰め方、思考のいい加減さがあるから、そこを厳しく突っ込まれているのだと思う。正直、私も人間だから、やたら口汚く罵られると気分がよいものではない。そして、そうした人に素直に謝る気になれなくなる自分もいて、なるほどなあ、と人間心理に感心したり。

で、私の心にもしみるように懇切丁寧に指摘してくださる方に謝罪と感謝を述べたうえで、しつこく突っ込んでくるご意見はスルーさせていただく、という感じ。ただ、時間はかかるけれど、そうしたご意見も肥やしにさせていただいている。私の中に未熟な点があるからそうしたツッコミがあるのだから。

以前はツイッターをやっていたけどバッシングがひどくてやめた、という人が私の周囲にも結構いる。その気持ち、痛いほどよくわかる(笑)。なのになぜ私は辞めていないかというと、バッシングや炎上のおかげで、私の至らないところが分かり、結局は修正できていくから。

正直、指摘の仕方が、こちらの感情をえぐるものだったりすると、私も至らぬところ多々ある人間なので、正直ムッとする。だから、指摘に対してありがとうとはなかなか言えなかったりする。でも、「次はそうしたツッコミも出ずに済む、納得してもらえる言葉を紡げないか」と考える契機になる。

先輩や師匠にどれだけ叱られてもめげずに向かってくる弟子がいちばん伸びると言われる。さて、私がそれに該当するかは分からないけれど、ツイッターは非常にたくさんの人の目にさらされ、思わぬ弱点を指摘される場としては、なかなかほかに見当たらない。

私がなるべく子どもの指導を欠かさないようにしているのは、「大人はウソをつくから」。大人は今後の付き合いのことも考えて、不快な思いをしても笑顔で返したりして、こちらの欠点、問題点を指摘せずにスルーしてしまう。このため、自分がゆがんでいくことを自覚せずに終わってしまう。

この点、子どもは正直なもので、すぐ顔に出る。私の接し方がまずいと、すぐに顔が曇るし、やる気をなくす。子どもは私の状態を百倍くらいアンプかけてクリアに見せる鏡以上の鏡だったりする。だから、時折自分の状態をチェックするため、子どもの指導に関わるように意識している。

ツイッターも、それに近いかもしれない。こちらに慢心があり、言葉の突き詰め方に甘さがあったら、実にものの見事にツッコミが入る。バッシングが来る。炎上しまくる。フォロワーがどれだけ増えようが関係ない。むしろ、フォロワーが多いほど炎上しやすいと言える。

それによって、「ああ、私のここがゆがんでいたのか」ということを察知することができる。では、次からどうしたらいいのだろう?と、時間をかけて考える。何しろ、そうやって炎上する場合は、長い時間をかけて出来上がったクセのことが多い。だから修正にも相当の時間がかかる。

しかもそうしたクセは、私のものの考え方の根底に根を張っていたりするから、修正は容易ではない。根っこのところを掘り返さないと、クセは再び芽を出す。だから、炎上の指摘の声にすぐ反応して修正できるものではない。長い時間をかけて、自分の思考の枠をはめ直すことからやる必要がある。

私が本格的にツイッターを始めたのは、東日本大震災の時から。当時、若手官僚のメーリングリストでも、被災地の様子が全く把握できず、困っていた。海外の医療支援をしている医師の方が被災地入りして現地レポートを送ってくれていたが、会津入りした途端ピタリと途絶え、分からなくなった。

ガマンがならなくなって「被災地に行く!」と決めたのが18日夜、実際に行ったのが確か19,20日だったと思う。名古屋から石巻まで移動する道中での様子を、ツイッターでつぶやいた。若手官僚の人たちも、私のツイッターで現地の様子を把握していたという。それから13年の時間がたつ。

ツイッターの特徴、それは「査読機能」だと思う。学術論文は、雑誌に投稿すると2人以上の査読者というのがつき、論文での問題点を指摘しまくる。雑誌に載せてもらうには、その指摘に誠実に答え、論文の完成度を上げていく必要がある。ツイッターでのツッコミは、査読に相当すると思う。

もちろん、ツイッターでのツッコミの中には、ただ揶揄したいだけだろ、というものや、やっかみでしかないものだったり、ただマウントをとりたいだけというものも多い。そういうものも「人間て生き物は面白いなあ」と参考にさせてもらっているが、重要なのは弱点の指摘。

たまに、私の心に響くように、私の問題点を指摘してくださる方がいる。これは大変ありがたい。謝罪するとともに、感謝の言葉を述べやすい。次に多いのが、わざわざ心をえぐるように問題点を指摘する声。これは感謝も謝罪の言葉も述べにくい。ただ、痛いは痛いが参考になるので、時間をかけて消化。

他は、炎上しているのに便乗してあれこれ言ってくる意見。まあ、これらはスルーさせていただいている。興味深い人間群像として観察させて頂いてはいるが。
ツイッターは、人間の思考というものを探るのに、なかなか優れている仕組みだと思う。炎上すればするほど、自分の弱点もよくわかるし。

大切なことは、たとえ炎上することがあっても、それを学びの契機にするかどうかだと思う。恨んだって怒ったって意味がない。何の役にも立たない。「せっかく」炎上したのなら、そこから何かを学び取るといいんじゃないか、と思う。

ツイッターは炎上するから嫌だ、バッシングをすぐうけるから嫌だ、という反応はもっともなことのように思う。でも、炎上やバッシングからも学ぶ姿勢があると、自分を鍛えるのになかなか面白い場ではあると思う。皆さんも炎上したら、「こりゃ学ぶいい機会だ」と考えてみてはいかがだろうか。

なお、炎上すると、相手を屈服させ、服従させねば気が済まない、という連中が現れる。私は、その残虐性に付き合う値打ちはない、と考えている。人間は残念ながら、失敗することがある。神様ではないのだから。完ぺきではないのだから。

大切なことは、失敗したら、間違ったことをしてしまったら、次に生かすこと。学ぶこと。それが大切なのだと思う。屈服し、屈従させるまで許さないという残虐な人間の奴隷になる必要はない。それよりは、自分が学び、同じ過ちを他の人が繰り返さないように努力することが大切。

人間はどうも、謝罪し、弱り切っている人間をさらに攻撃したくなる残虐性を備えているらしい。特に正義の名の元なら、相手を死に追い詰めても構わない、と考えてしまう生き物らしい。日頃の鬱憤はここならぶつけて構わない、と考えてしまうらしい。

人間って、そういう残虐性があるんだなあ、というのは学んでおくとよいと思う。ただ、過ちを犯したからと言って、直接関係がないのにひたすら残虐性を示し、自分に謝れ、屈従しろと迫る人間の相手をする必要はない。だって、当事者じゃないんだもの。

大切なことは、人間にはそうした残虐性があるということを学びつつ、「その残虐性が現れないようにするためには、自分の中にどんな心構えを用意し、どんな言葉を紡ぐようにしたらよいのか」を必死に考えること。やはり、残虐性を引き出した自分にも問題点はあるのは間違いないように思う。

その場では残虐性を示した人も、いざ直接会ってみると、あたりの良い優しい人だったりする。そんな人から残虐性を引き出してしまった自分の言動に問題があった可能性は、やはり考えておく必要がある。だから、根源にまでさかのぼって、自分の思考の枠を問い直す必要がある。

私が当たり障りのない話題ではなく、あえてギリギリのエッジのところの話題をあえてするのは、そこに自分の思考の甘さを感じ、みなさんの意見を取り込みたいから。すると、大きな学びがある。まだまだ自分の知らない世界が広がる。

炎上、バッシングという現象を、ただ恐がり、避けるのではなく、そこからも何かしらを学びとる。すると、日常生活では得られない学びがあり、自分をバージョンアップさせる契機が得られるかも。そんな風に考えて、今日もつぶやく。

<おまけ>
気分はこれ。
https://x.com/Aa12ikusaGa/status/1395309944325349379/photo/1

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